2016年2月13日(土)
嫌なことがあった日は、熱いお風呂に入ることにしている。
ゆでタコになる覚悟で首まで浸かって、汗をダラダラ垂らすと、嫌な記憶が薄らいでいく気がするのだ。
今日も、お風呂から上がってもしばらく汗が吹き出して止まらないくらい長湯をして、少しはスッキリしたと思ったけれども………
「…………」
テーブルの上に置かれた黒い小さな箱を見て、すぐに心のモヤモヤが復活してしまった。
『今年からは、峰君にチョコ渡すのやめてもらえるかな?』
敦子さんの申し訳なさそうな表情……。でもその瞳には勝ち誇った光が灯っていた。
「買う前に言えっての」
口汚く罵って、ゴミ箱に捨ててやろうかと掴んだ。……けれども。
「………一粒千円」
3つで3100円の高級チョコ……。
結局また、テーブルの上に置いた。チョコに罪はない。自分で食べよう……。
でも、シラフで食べる気にはなれず、うちにあったアルコール類をテーブルに並べ、端から飲みはじめる。
はじめはビール。とりあえずビール……
今日、突然クリニックにやってきたヒロ兄の奧さん。敦子さん。
『お正月にお義母さんが言ってたでしょう? 菜美子ちゃんの初恋は峰君だって。それを玲佳が気にしちゃってて……』
ヒロ兄のお母さんと敦子さんはあまり仲が良くない。女の二面性を発揮して、表面上は上手くやっているけれど、見えないところでの嫌味の応酬はヒドイものだ。
今回の『初恋』話もその一端で、私が小学生の時に、まさかその数年後に恋心に気がつくなんて露とも思わずに、「ヒロ兄のお嫁さんになる」とか適当なことを言っていた話を、今さらおばさんが言い出したのだ。『あれが叶っていれば、広明の嫁は菜美子ちゃんだったのに』と……。
『菜美子ちゃんが峰君にくれるチョコっていつも本命チョコそのものじゃない? 普通、妻子ある人には、もっと……なんて言うのかな。奥さんや子供が食べられるようなチョコを渡すものでしょ? でも、菜美子ちゃんのは……』
はい。そうですね。毎年、お酒入りだったりしますもんね。今年もお察しの通り、3粒しか入ってない高級チョコ用意してましたよ。
『玲佳ももう5年生で、そういうの気にする年頃だから……』
玲佳ちゃんのお姉ちゃん、京佳ちゃんはもう高校一年生ですけどね。京佳ちゃんは良かったんですかね?
『それに、菜美子ちゃん、今お付き合いしてる人いるんでしょう? 峰君も嬉しそうに言ってた。えーと……区役所にお勤めの人だっけ?」
付き合ってないし。というか、もう一か月半連絡取ってないし。
頭に浮かんだ山崎さんの照れたように笑った顔を、ブンブン首をふって追い払う。
「…………」
次はカクテル。桃のカクテル。ピンクの缶がカワイイ。
『菜美子ちゃんも早く結婚したら? 20も年上の妻子持ちのオジサンにチョコ渡してる場合じゃないでしょ』
20歳違いのカップルなんていくらでもいる。その人達と私の差は何?
「………タイミング?」
あの時……もし、私が18歳を過ぎてたら? そしたら、ヒロ兄は私を抱いてくれたかな……
「………ないか」
ないな……。
『冗談やめろよー』
ゲラゲラ笑いながら、私を押しのけたヒロ兄の大きな手を思いだす。
あの時……。
敦子さんと結婚すると聞かされてから3ヶ月後。8月の終わり……
まだ高校一年生だった私。夏休みの宿題をみてもらう口実で、ヒロ兄の部屋に上がりこんだ。
『ヒロ兄のことが好き』
ギュウッと抱きついた私を『なんだ急に』と優しく言いながら頭を撫でてくれたヒロ兄……
『ヒロ兄が誰かのものになるなんてやだ』
押さえられない気持ちを一気に絞り出した。
『あげるから。私を全部あげるから。だから、ヒロ兄、どこにもいかないで』
誠心誠意こめて真剣に訴えたのに、あろうことか、ヒロ兄は、すごく面白い冗談を聞かされたみたいにゲラゲラ笑って、私を押しのけたのだ。
『冗談やめろよー。あげるって、お前、そんなセリフ何で覚えたんだよーませガキが。だいたい高校生に手出したら捕まるって』
『じゃあ3年待って……っ』
『ばーか』
ヒロ兄はあの大好きな笑顔で、また私の頭をグシャグシャと撫でると、
『大丈夫だよ。どこにもいかねえよ。オレは、ずっとお前のそばにいる』
『え……』
それって………っ
一瞬の期待は次のセリフで打ち砕かれる。
『お前は一生、オレの大切な妹だからな。結婚しようが父親になろうが変わんねえよ』
『ち……父親?』
ざっと血の気が引いた。
ヒロ兄は少し照れたようにうなずくと、
『まだ初期も初期だから、親父達にも言ってないんだけどな。オレも敦子も36だし、急いだ方がいいだろうと思って解禁してみたら、一発的中でな。このまま無事に育ってくれれば、来年の4月にはオレも父親だ』
『え……』
『だから、結婚式は11月だけど、籍はもう入れようと思ってる。それで……』
その後のヒロ兄の話はまったく覚えてない。ただ、覚えているのは、
『結婚式では親族の席に座ってくれ。お前はおれの妹なんだから』
妹、と何度も言われたことだけだ。
「次……ワイン」
ラッパ飲みはさすがにはしたないので、グラスを持ってくる。綺麗な赤のワイン。
ワイン………あの時、初めて敦子さんに会った時、ヒロ兄は赤いワインを飲んでいた。
「……山崎さん」
2ヶ月ほど前、偶然同じ店に連れていってくれた山崎さんも赤のワインを飲んでいた。銘柄は違ったけど。
「なんだかなあ……」
連絡が途絶えて1ヶ月半。こうしてふいに山崎さんのことを思いだすことがよくある。
『そうやって電車を乗り継いでいくと、いくらでも遠くに行けるんですよ』
『自分の知らない場所……知っている人のいない場所……』
そういって視線を遠くにやった山崎さん。あの日、山崎さんも、何かに呪縛されている人なんだと推察した。知っている人のいない場所に行きたい、というのはその表れだ。
「知っている人のいない場所……かあ……」
ヒロ兄のいない場所……そこに行ったら、この呪縛から逃れられるのかな……
黒い箱をそっと開けてみる。小さなチョコが3つ。このたったの3つの想いも受け取ってもらえなくなった。
「やっぱ、捨てようかな……」
蓋を閉じる。高級感あふれる黒の固い箱……
「もったいないな……誰かにあげようかな……」
誰か…………
『何かありましたら何なりとお申し付けください』
ふっと思いだした山崎さんのメッセージ。
「うそつき……」
つぶやいてから、いや、違うな、と思い返す。
ごめんなさい、と言ったのは私だ。
言わなくてもいい本心をペラペラ話したのも私だ。
連絡、こなくなって当たり前だ。連絡するな、と言ったも同然なんだから。
(でも、それでも……)
そんなことなかったみたいに、連絡くれることを期待していた。図々しい。でも……
(天使だって……)
そういってくれた山崎さんの真剣な瞳……
そこへ突然、ポーンという音が鳴った。0時の鐘の音。バレンタインデー当日だ。
「…………」
時計と黒い箱とワイングラスと見比べ……衝動的にスマホに手を伸ばした。
『何なりとお申し付けください、はまだ有効ですか?』
『高級チョコレートがあります』
『もし、まだ有効でしたら、食べにきてください』
図々しくそんなことを打った私は相当に酔っぱらっている。
でも。
『すぐに行きます』
ほんの少しの間の後、そう返事をくれた山崎さんもきっと酔っぱらってるに違いない、と思った。
山崎さんの家は横浜だ。もう12時。すぐになんか来られるわけがない。
残っていたワインを飲み干し、次のお酒に手を伸ばす。次は酎ハイ。もうメチャクチャだ。でもいい。潰れてしまいたい。
そうして、いい具合に頭が朦朧としてきたところで……
「え……?」
インターフォンが鳴った。行きます、とラインをくれてからまだ20分ちょっとしか経っていない。
でも、インターフォンの画面に映し出された姿は確かに山崎さんで……
エントランスを解錠してから一分後、チャイムの音にそっとドアを開けると………山崎さんが気まずそうな顔をして立っていた。
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お読みくださりありがとうございました!
悔しい~~予定のところまで書き終わらなかった!!
ので、14は3までになりそうです。
間を開けたくないので、できれば明日、続きを更新したい(希望)と思っております。
注釈:ヒロ兄の「解禁してみたら、一発的中」というのは、「避妊をやめてすぐのタイミングで授かった」という意味です。結婚式の日取りも決まったし、もう子供できてもいいだろーと思って生解禁(←お下品)した、ということでした。
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