先月の24耐の参戦記です。ぐずぐずと記しています。
先日の24耐(第3回三木総合防災公園マラソン:シングルの部)では、初マラソンや初ウルトラの時以上の「地獄」を味わいました。
儂にとっては、2年前の「えびすだいこく100km」以来のウルトラです。2年開いたのは、これぐらい間隔を開けないと、しんどくて走る気になれないというのが1番の理由です。この9月下旬の時期、京丹後ウルトラ(歴史街道丹後)と村岡ダブルフル(いずれも100㎞。しかも結構な高低差有り)を一週間空けて続けて走るという方のブログを読んだことがありますが、儂自身はちょっと考えられません。
2番目は、交通費やエントリーの費用などの理由です。ウルトラの参加費は15000円以上の大会がほとんどですし、往復の交通費を考えると結構な金額になります。今回は、7月末にコンビニのトイレで8000円を落としたため(ジョグ後「いつものように」着替えていた)金欠状態になり、当初予定だった京丹後へのエントリーを止め、近くてエントリーの費用も半額程度のこちらの24耐にしたという理由もあります。今となっては「災い転じて」ということになりますが。
えびすだいこくの時の教訓の一つに、車で行くと行きも帰りもしんどいというのがあり(安くつくのですが)、開催地のことも考え、今回は行きはフェリー、帰りは高速バスということにしました(帰りにビールがたくさんたくさん飲みたかったというシンプルな理由もあります)。
で、行きは前日の夜、フェリーに乗り大阪まで行き、さらに翌朝大阪から4時間かけて会場に到着。案外遠く、車で自宅から行っても5時間はかからないはずなので、選択ミスったかという感じでした。ニュートラムから阪神、神戸電鉄まではスムーズでしたが、最後のバス待ちが長かった・・・。緑が丘の駅で1時間呆けていました。待っている時に職場の同僚から熱い激励のメールが入り、そういえば走るんよなあと人ごとのように返事をしました。そこから会場までは5キロぐらいなので、普段なら確実に走っていくところです。でも、これからいやと言うほど走らなければならないので我慢しました。フェリーですから、そう十分な睡眠はとれておらず、かといって前日まで仕事。みんな条件は似たようなものなので、うだうだ言えませんが、不安がないとも言えませんでした。
到着すると、無茶苦茶きれいで設備の整った陸上競技場で本当にびっくりし、また、シングルの部の参加者17名という数にびっくりしました。ぎりぎりに申し込んでの自分のゼッケンの番号から推測すると50人ぐらいいるのかと思っていましたから。ランニングブームといえど、やはり24時間というのは、競技人口の少ないレアな世界なのかと妙に感心しました。観客席下のピットスペースにウレタンマットを敷き、陣地を確保します。周囲は、リレー部のチームエントリーの方々で大賑わいです。落ち着きなく駅前のコンビニで買っておいたパンを食べ、甘いコーヒーを飲みます。今日は、カロリーを気にせず存分に食べることができますが、思ったより入りません。何でかなと思っていたら、2時間前に、既にパンやらスパゲティやらをそのコンビニの前で食べていたことを思い出しました。
で、開会式と競技説明の後、何となくという感じで昼の12時にスタート。どきどきも不安もなく(強いて言うならマイクの音が全く聞こえなかったので、要項に書いてあるルール以外のことが追加されたらまずいなとは思いました)。コースは、競技場を出て、公園内のジョギングコースを周り再び競技場に帰ってくる1周2.2kmを周回します。この三木総合防災公園は、サッカー場は数面あるわだだっ広い芝生広場はあるわ、陸上競技場に野球場にとその規模にはびっくりします。走っていない頃の昔の儂なら、駐車場から歩いて移動するのも嫌で、トイレに行くだけで息切れしそうな気がします。
スタート前には、いろいろなことを考えていました。いったいいくらぐらい走れるのだろうかと。自分にとって100km以上は未知の世界です。距離を重ねるのは難しいのは分かります。例えば、萩往還は山道の上に制限が24時間で、140km(萩を走ったことがある儂の「師匠」がいうには正式には132km余りなんだそうですが)という距離・・・ということは、私もゆくゆくは萩を走りたいと考えているランナーである以上、この辺が最低目標かなと思いました。何も背負って走らないわけですし、この140kmにどれだけ重ねることができるかかなと(これも走った後で考えれば、結構無謀な目標だと思います。100kmは走れても110kmは格段に厳しい距離です。1km重ねていくことがどんなに大変なことかと)。
そして、今回は「入賞」を狙おうかと。そうなれば、最低160km以上かなと・・・。正直に言うといろいろ皮算用して走りました。やはり欲も見栄もあります。
最初の4時間は「えびすだいこく」の時のペースより少し早めでした。野球場で試合をする小学生、サッカー場で練習する高校生、芝生広場で遊ぶ家族連れ、いろいろな人がそれぞれの時間を過ごす中を抜けるように走りながら、儂を含めたランナーはテンポ良く周回を重ねます。しかし、この時点ですでに左の足首がおかしくなり、当初の予定より早い時間でスピードが落ちてきました。結構抜かれます。抜かれたことで、ちょっと気持ちがめげて来ました。いつものジョグのように帽子はかぶらず、暑い中ややとばしたのも影響したかもしれません。今回のシューズはアシックスのGT-2140で、いつも通勤ランで履いている2130の同系列ということもあり余り考えずに選択して履いてましたが、微妙に履いた感じが違っていたのかもしれません。最後の鋭角のコーナーで元気よく方向転回していたのが悪かったのかもしれません。今考えればいろいろ理由はありました。ただ、正直よく分かりません。だいたいのことは考えた上で準備をして走りますが、距離が長いことで考えてもみなかった影響が出ることはあると思います。そういうものだと思います。
そのうち、周回を重ねるごとにずるずるとペースが維持できなくなり、腹も減ってきました。そこで、夕食を頂きに長めにピットに入りました。夜の8時前ぐらいです。主催者に用意していただいたカレーの大盛り。思わずご飯を残して置こうかと思うくらいの量でしたが、床に置いておくのも何だかなあですし、ご飯だけ後で食べるということもしないかもしれないと思い、その場で全部いただきました。あったかいご飯が本当にありがたかったです(このころすでに写真をとる余裕はなし)。
駅伝チームは、交代で走りますし、食事関係もポットでお湯を確保したり食料も不足なく準備されているようでしたが、シングルの参加者の中でも特に儂のように単独で来ている者は、装備も限られ準備もぼちぼちしかできませんから、例えばオートバイレースでのワークスチームとプライベートチームぐらいの違いがあるようなものかもしれません。儂自身は、持参した食料の総カロリーを考えると不足するかもしれないという不安を感じていました。で、前半から結構エイドのビスケットやらバナナやらを一周ごとに補給していました。残念ながら途中で飽きてしまい、続きませんでしたが。
再びコースに出て、10時ぐらいまでは歩かずにいたのですが、10時を過ぎるぐらいから、歩いている人になかなか追いつけないぐらいのスピードまで落ちてきました。自分より年上のランナー、お世辞にもフォームがあまりきれいでないランナーにまで本当に何度も何度も抜かれて気が滅入ってしまいます。何とか100キロまでは歩かずに粘りたいと考えていましたが、早歩きのランナーに抜かれるようになったため、80キロ余りで走るのをやめ、上り坂の部分(約600mぐらい?)を早歩きで歩くことにしました。
体への負担が少し軽くなったのか、4、5周は順調にタイムを回復しましたが、やはり足首が痛いためか、走り始めてからのスピードが上がらなくなり、歩くスピードも早歩きから普通の歩きになってきました。体が思うように動きません。
夜になり、月が出ていました。月明かりと公園の照明で足下は問題ないぐらいに明るく、夜のジョグとしてはすばらしい環境でしたが、実際には気持ちよくは走れませんでした。だんだんとしんどいという感じから、痛い、つらい、悔しいという気持ちに変わってきました。歩きながら、そしてよたよたと走りながら、入賞を意識して臨むという分相応でないことを少しでも考えてしまっていた自分が情けなくなり、相当へこみました(この気持ちはしばらく思い出したくない、大会のことは誰にも話したくないなあとさえ思いました)。
その上、月が高く上がるにつれ気温が低くなり、痛い、眠い、寒いの三重苦で体も相当にやられました。半分寝ながら歩き、路肩の芝生の感触で目が覚めること数回。距離が稼げる訳でもなく、相変わらず、リレーチームだけでなくシングルのランナーにも抜かれ続けました。抜かれるというのは、普段はあまり何とも感じないのですが、周回コースで何度もされると自分の存在が否定されているような気になります(抜いた人にそういう気持ちは全くないでしょうが)。12時過ぎてようやく100kmを超えたものの、それ以上は距離がなかなか伸びず、時間がやたらかかるようになり、「無期限休養」の絶望的な気分でピットに入りました(結局100kmは12時間半ぐらいでしたか。これでも十分な記録ですが・・・)。 もう、ゴールのことは考えていませんでした。棄権はしないと思っていたのでゴールはするだろうけど、これから何km歩けるのか見通しが持てなかったし、これから昼まで11時間ぐらい眠り続けて終了を迎えることもあるかもしれないとも思いました。
今考えれば、痛みに対する対策を全くしていませんでした。スプレーやテーピング、痛み止め(バファリン等々)を持ってきていれば違っていたのかもしれませんが、そうした準備を全くしていませんでした。過去2回のウルトラでは80~90kmぐらいで背中が痛くなり、かなりきつくてエイドごとにおいてあるスプレーにお世話になった記憶があるのに、です。距離が長くなれば、当然、痛みについての対策をしていなければなりません。しばらくエントリーの期間が空いていたことで、このことを忘れていたようです。
1時半か2時前かはっきりと覚えていないのですが、ピットで靴を脱ぎ、持参したキャンプ用マットの上に寝転がりました。寝転がると寝過ぎるので、座ったまま仮眠をとった方がよいようにも思いましたが、どうしても横になりたいと思いました。目覚ましすら準備しませんでした。もう朝まで寝過ぎてもかまんわいという感じでした。起きたところで、この先どうやって距離を稼げばいいのか見当がつかなかったのですから。
目が覚めたのは、それからだいたい35分後ぐらいでしょうか。通常、眠いときに仮眠をとるとだいたい15分ぐらいで目が覚めるのですが、今回はそういうわけにはいかなかったようです。ただ、思ったより目はすっと覚めました。仮眠時間が思ったより少なかったので、直感的に「まだいけるかも」と感じました。寝ぼけているせいか、脚の痛みも感じず、靴を履いてすぐに再スタートしました(コンタクトレンズは結局24時間つけたままです)。
気持ちとは裏腹に、走るのはまだ無理で、なかなか距離は伸びませんでした。寒いので、1周ごとにピットに帰り、ジャージを着たり、ズボンをはいたりして、ふるえながら歩きました。冬の愛媛マラソンで使用する「ファイントラック フラッドラッシュスキンメッシュ」も着用しましたが、体温が上がっていないので効果なし(あたりまえか)。走れば体温が上がるのでしょうが、走れないのでどうしようもありません。着ぶくれし、走る格好でもありませんでした。始めから着替えはしないつもりでしたが、これだけ着込むことになるのは想定外でした。一応、秋口からいつも着ているピステぐらいは持ってきていましたが、あまり役に立ちません。結局、スタート前に会場に出店しているお店で、日焼けして安くなった2009年度の高校駅伝のトレーナー(500円!)を買っていたのですが、その季節はずれの厚手のトレーナーを着て、何とか寒さが治まりました。トレーナーがここで役に立つとは思いませんでした。トレーナーの背中には「まめにつないでさいごまでねばれ」とありました。
こうして二時間余り、効率の悪い周回を繰り返しました。ようやく寒さが治まると、出ると公言して来たからにはせめて恥ずかしくない記録を持ち帰りたいという、見栄っ張りな根性が再び強くなり、とにかく歩き続けました。距離はそれほど稼げませんでしたが、他にも寝ないで励まして下さっている方の存在が支えになりました。実行委員でしょうかボランティアスタッフでしょうか、女性(大学生ぐらい)の方数名が9時ぐらいから夜通し競技場入り口のエイドに陣取り、給水等のお世話をしてくれ、夜中になっても休むことなく拍手で励まして下さいました。私は、通るたびに、その都度会釈していましたが、首が疲れてきたので、明け方前には手話で「ありがとう」といいました。手を挙げるのは抵抗があったし(歩いていたので)、声を出す元気もなかったので。すると彼女たちは、次の周回では拍手ではなく、両手の拳を上下させ「がんばって」と返してくれました。これは本当にうれしかったです。
監察でコース上にいる実行委員の方々も、夜は立つ場所が少なくなったものの、基本的にはほぼ同じ方が同じ場所で、ずっと見守っていて下さっていたようでした。何度か逆回りで周回しながら励まして下さった方もいました。本当に頭が下がりました。下りのところに居てくださった方は、拍手や棒を叩いてリズムをとって下さいました。「カンカンカカンカカンカンカン・・・」みたいな感じで。結構バリエーションも多く、それに合わせて走るリズムを合わせたりもしました。
明け方になり、山の方がきれいな朝の色になってきました。以前、単車で遠距離通勤をしていた時によく見たきれいな「あお」でした。あの頃は何もかも「単車」でした(そういえば、片道80kmということは往復で160kmかあ・・・と今思いました)。こうして自分の脚で走っていることの不思議さを感じました。足首の痛みは少し軽くなって来て気分を持ち直し、このペースで残りどれだけいけるかを頭の中で計算しました。結果、走りを少し増やせばとりあえず140kmには乗せることができるかもしれないということになりました。それぐらいなら、帰っても報告できる数字かなという感じで、少し元気になると見栄が出てきたようでした。そして目標が持てたことで、残りの7時間ぐらいはひたすら1周を重ねることだけに集中しました。
途中経過は、まめに更新されて本部に掲示されていたようですが、無視しました。順位を気にする自分の気持ちに腹が立っていましたので。結局、そのうち確認しようと思っていた順位は最後まで一度も見ないままでした。
シングルの参加者のほとんどは、いすと机がある本部とは反対側のピットにいたようです(移動するのが面倒だったので、結局床にマットを敷いていろいろ物を並べ、自分のピットスペースを作ったのですが、始めにいすも机もあることを確認できていたら、儂もそちらにいっていたかもしれません)。結果、私はリレーチームが仮眠をとったり談笑している方が多いピットにいたわけですが(他にはシングルの参加者は2、3名でしたか?)、終始シングルの参加者をピットであまり見なかったことが逆に、最後の最後になって他人を気にせずに走れたのかもしれません。
日が昇り気温が上がり、基本的に1時間に3周回というペースを堅持し(約6.6km/h)、距離を重ねました。このときはずっと何か考えていたようにも思いますが、全く何も考えていなかったようにも思います。競技場で時刻を確認し、トラックを走り、外のジョギングコースへ出ての下り坂を惰性を使って走り、やがてフラットから上りに差し掛かる頃に歩きに切り替え、再びフラットから下りになるほんの少しの勾配のところで走りにギアを切り替え、そして競技場まで続けて走る・・・を繰り返しました。左の足首は痛かったし、歩きから走りに切り替えるときは、ちょっとした気持ちの切り替えも必要でした。少し止まると次はもう歩けないような気もしていました。やめるならいつでもやめられるぐらいのぎりぎりのところでした。それでも、時間が長いと感じてはいなかったかもしれません。単調であるはずの周回コースもそんなにはイヤではありませんでした。ぐるぐる回りながら、前に進むことだけでした。この間の休憩はほとんどとっていません。
儂は、マラソンの時、レース後半に腹を立てることがよくあります。何故かよく分かりませんが、実際そうです。腹を立てると言うこと自体はあまり好ましいことではないのかもしれませんが、ただ、結果的に推進力の一つにもなります。この時もそうでした。今回は、順位のことを気にしすぎたことが、腹立ちの原因だったと思います。もっと純粋に走ることと向き合いたいと思いましたし、そのギャップの中にいる自分を情けないと思いましたし。
残り10分を残して最終周回へ。24時間ほぼ休みなしで見守ってくださった大会実行委員の方に、一人一人頭を下げ、涙をこらえながら走りました。結局、明け方から再びほぼ休みなしで走り、上方修正して162kmという自分にとっての目標を達成することができました。残りの8時間は、順位(他人)と向き合うことを忘れ、ひたすらの距離(自分)と向き合っていました。たとえ見栄でも、このことが集中を切らさずに、一周を重ねることにつながったように感じます。終わってみれば、自分の走りをするという初心に還っていたマラソンでした。
ゴールに多くの方が出迎えてくださいました。格好悪く、でも堂々と一歩一歩進みました。自身にとっては最高のゴールテープを切ることができました。
泣きました。
初めてのフルとウルトラの時は「もう走らなくていい」という気持ちでした。自身よくやったという涙でもありました。今回は、よくやったという気持ちに加え、いろいろなことに対して「ありがたい」という気持ちの涙が含まれていました(別の言い方をすれば、ここまで走って痛みを感じないと「感謝」という気持ちが出ないということは、儂の器の小ささをそのまま表しているような感じではありますが)。
162km走れたので、順位はどうでもよかったんですが(本当です)、目標をクリアでき、充分満足できたので、軽い気持ちで「とりあえず順位見とこ」と、途中経過の張り紙を見に行きました。周回数間違えてないだろうなという本当に軽い気持ちでした。
泣きそうになりました。
3位でした。
運動音痴で、体育の時間が大嫌いだった儂です。小学校の時は鉄棒も跳び箱も水泳も、クラスの中でいつまでもできない最後の1,2人にいつも入っていました。小中とずっと学年一の鈍足でした。体も弱く、体力も運動能力もありませんでした。
そんな儂でも、この歳になってついに「陸上の大会」で参加賞以外の賞を頂くことになりました。恥ずかしいので、参加者15名(結局2名出走していなかったことを最後に知りました)だったから、という言い訳はします。でも、3位は3位なので。162kmちゃんと走っていますので。
最後の最後になって順位にこだわっている自分をさらけ出してしまい、ちょっと「何だかなあ」という気はしないでもないのですが、レース後半、そうした自分と向き合った結果での順位なので素直に喜ぼうとも思いました。
儂を抜きまくっていたはずのランナーは、それほど周回を重ねていなかったようでした。何故かよくわからないのですが、休憩を思ったよりとっていたのではないかと思いました。儂のピットに入った時間は、ものを食べたり飲んだりトイレに行ったり仮眠とったりの合計が1時間54分で、残りの時間はずっとコースに出ていたということになります。不格好でゆっくりでもしつこくしつこく、そして見栄っ張りな根性が源ではあるにしても、とにかく回数を重ねたことが結果に表れたようです。
帰りのバスの時刻が近付いています。その次の2時間後のバスでは、神戸からの高速バスに間に合わないので、急いで帰り支度をしなければなりません。感動もそこそこに、ゴミも残った食料も、マットも着替えもとにかく鞄に放り込み片付けました。24時間はきっぱなしのCW-Xのタイツなんかそうそう簡単に脱げません。トイレで足がつりそうになりながら必死で脱ぎました。
むぎゅむぎゅと脚で地面を踏みしめるごとに、左の足首から音がするような気がします(実際かなり腫れ、水がたまっているような感じでした)。ゆっくりと競技場を出て、バス乗り場に行くと、実行委員の方が何名かバス待ちをしていました。少し照れくさいような感じで、お互いに顔を合わせました。バスに乗り、電車を乗り継いで三宮へ行き、喫煙席しか空いていなかったマクドの席に座りようやく軽く「昼食」をとりました。ビールが飲めれば良かったけど、いい店を見つけることが出来ませんでした。足が痛くて探し回るのも大変だったし。
結局、高速バスに乗り込んですぐに500mlを一本「くぐっ」と一気に飲んだとたんに意識がなくなりました。窓の外に「今宮」という文字が見えたのが最後でした。高速にはまだ入っていなかったはずです。ビールがうまいとかのレベルの話ではなかったようです。
そして、左足やら右膝やらの治療で一週間ぐらい難儀なことになります。
162kmは約100マイルと少し。100マイル超えというととんでもないことをしたような気分です。160kmというのはそれほど飛び抜けた記録ではないとは思いますが、100マイルという響きに改めて達成感を感じます。
今回走りきったことで、まだ長距離は自分の伸びしろがあるということを確認することができた点も大きな収穫でした。最近、走ることのモチベーションをどこに求めるか悩んでいたので(記録的にはフルはもう無理だろうし、かといって100kmもあれ以上の記録は考えられないという点で)、もうしばらく、今のままの練習を続けてみようと思いました。体力的には下り坂ですが、しぶとさは今より向上するかもしれませんし。
次は、フル4回分の約168kmが目標です。エントリーはもう少し先のことになるはずです。
最後に・・・。
雰囲気のよい大会でした。思っていた以上の貴重な経験をすることができました。リレーチームの楽しそうな様子と、襷をつなぎながらみんなでゴールを目指すというリレーならではの成就感、達成感を想像し、いつかはリレーの部に出てみたいと思いました。
振り返れば、山の中、決して消えない明かりに希望を託し、ぎりぎりのところで自分と向き合いながら歩きました。顔をゆがめフォームを崩しながら、何時間たってもひたすらに前に進む他のランナーに、自分も負けないようにと頑張ることができました。
そして、実行委員の方々の休むことない励ましと見守りに勇気づけられながら走りきることができました。他人のために24時間支えることの尊さは、走ることが好きだからというだけでは説明できません。ありがとうございました。本当にありがとうございました。
先日の24耐(第3回三木総合防災公園マラソン:シングルの部)では、初マラソンや初ウルトラの時以上の「地獄」を味わいました。
儂にとっては、2年前の「えびすだいこく100km」以来のウルトラです。2年開いたのは、これぐらい間隔を開けないと、しんどくて走る気になれないというのが1番の理由です。この9月下旬の時期、京丹後ウルトラ(歴史街道丹後)と村岡ダブルフル(いずれも100㎞。しかも結構な高低差有り)を一週間空けて続けて走るという方のブログを読んだことがありますが、儂自身はちょっと考えられません。
2番目は、交通費やエントリーの費用などの理由です。ウルトラの参加費は15000円以上の大会がほとんどですし、往復の交通費を考えると結構な金額になります。今回は、7月末にコンビニのトイレで8000円を落としたため(ジョグ後「いつものように」着替えていた)金欠状態になり、当初予定だった京丹後へのエントリーを止め、近くてエントリーの費用も半額程度のこちらの24耐にしたという理由もあります。今となっては「災い転じて」ということになりますが。
えびすだいこくの時の教訓の一つに、車で行くと行きも帰りもしんどいというのがあり(安くつくのですが)、開催地のことも考え、今回は行きはフェリー、帰りは高速バスということにしました(帰りにビールがたくさんたくさん飲みたかったというシンプルな理由もあります)。
で、行きは前日の夜、フェリーに乗り大阪まで行き、さらに翌朝大阪から4時間かけて会場に到着。案外遠く、車で自宅から行っても5時間はかからないはずなので、選択ミスったかという感じでした。ニュートラムから阪神、神戸電鉄まではスムーズでしたが、最後のバス待ちが長かった・・・。緑が丘の駅で1時間呆けていました。待っている時に職場の同僚から熱い激励のメールが入り、そういえば走るんよなあと人ごとのように返事をしました。そこから会場までは5キロぐらいなので、普段なら確実に走っていくところです。でも、これからいやと言うほど走らなければならないので我慢しました。フェリーですから、そう十分な睡眠はとれておらず、かといって前日まで仕事。みんな条件は似たようなものなので、うだうだ言えませんが、不安がないとも言えませんでした。
到着すると、無茶苦茶きれいで設備の整った陸上競技場で本当にびっくりし、また、シングルの部の参加者17名という数にびっくりしました。ぎりぎりに申し込んでの自分のゼッケンの番号から推測すると50人ぐらいいるのかと思っていましたから。ランニングブームといえど、やはり24時間というのは、競技人口の少ないレアな世界なのかと妙に感心しました。観客席下のピットスペースにウレタンマットを敷き、陣地を確保します。周囲は、リレー部のチームエントリーの方々で大賑わいです。落ち着きなく駅前のコンビニで買っておいたパンを食べ、甘いコーヒーを飲みます。今日は、カロリーを気にせず存分に食べることができますが、思ったより入りません。何でかなと思っていたら、2時間前に、既にパンやらスパゲティやらをそのコンビニの前で食べていたことを思い出しました。
で、開会式と競技説明の後、何となくという感じで昼の12時にスタート。どきどきも不安もなく(強いて言うならマイクの音が全く聞こえなかったので、要項に書いてあるルール以外のことが追加されたらまずいなとは思いました)。コースは、競技場を出て、公園内のジョギングコースを周り再び競技場に帰ってくる1周2.2kmを周回します。この三木総合防災公園は、サッカー場は数面あるわだだっ広い芝生広場はあるわ、陸上競技場に野球場にとその規模にはびっくりします。走っていない頃の昔の儂なら、駐車場から歩いて移動するのも嫌で、トイレに行くだけで息切れしそうな気がします。
スタート前には、いろいろなことを考えていました。いったいいくらぐらい走れるのだろうかと。自分にとって100km以上は未知の世界です。距離を重ねるのは難しいのは分かります。例えば、萩往還は山道の上に制限が24時間で、140km(萩を走ったことがある儂の「師匠」がいうには正式には132km余りなんだそうですが)という距離・・・ということは、私もゆくゆくは萩を走りたいと考えているランナーである以上、この辺が最低目標かなと思いました。何も背負って走らないわけですし、この140kmにどれだけ重ねることができるかかなと(これも走った後で考えれば、結構無謀な目標だと思います。100kmは走れても110kmは格段に厳しい距離です。1km重ねていくことがどんなに大変なことかと)。
そして、今回は「入賞」を狙おうかと。そうなれば、最低160km以上かなと・・・。正直に言うといろいろ皮算用して走りました。やはり欲も見栄もあります。
最初の4時間は「えびすだいこく」の時のペースより少し早めでした。野球場で試合をする小学生、サッカー場で練習する高校生、芝生広場で遊ぶ家族連れ、いろいろな人がそれぞれの時間を過ごす中を抜けるように走りながら、儂を含めたランナーはテンポ良く周回を重ねます。しかし、この時点ですでに左の足首がおかしくなり、当初の予定より早い時間でスピードが落ちてきました。結構抜かれます。抜かれたことで、ちょっと気持ちがめげて来ました。いつものジョグのように帽子はかぶらず、暑い中ややとばしたのも影響したかもしれません。今回のシューズはアシックスのGT-2140で、いつも通勤ランで履いている2130の同系列ということもあり余り考えずに選択して履いてましたが、微妙に履いた感じが違っていたのかもしれません。最後の鋭角のコーナーで元気よく方向転回していたのが悪かったのかもしれません。今考えればいろいろ理由はありました。ただ、正直よく分かりません。だいたいのことは考えた上で準備をして走りますが、距離が長いことで考えてもみなかった影響が出ることはあると思います。そういうものだと思います。
そのうち、周回を重ねるごとにずるずるとペースが維持できなくなり、腹も減ってきました。そこで、夕食を頂きに長めにピットに入りました。夜の8時前ぐらいです。主催者に用意していただいたカレーの大盛り。思わずご飯を残して置こうかと思うくらいの量でしたが、床に置いておくのも何だかなあですし、ご飯だけ後で食べるということもしないかもしれないと思い、その場で全部いただきました。あったかいご飯が本当にありがたかったです(このころすでに写真をとる余裕はなし)。
駅伝チームは、交代で走りますし、食事関係もポットでお湯を確保したり食料も不足なく準備されているようでしたが、シングルの参加者の中でも特に儂のように単独で来ている者は、装備も限られ準備もぼちぼちしかできませんから、例えばオートバイレースでのワークスチームとプライベートチームぐらいの違いがあるようなものかもしれません。儂自身は、持参した食料の総カロリーを考えると不足するかもしれないという不安を感じていました。で、前半から結構エイドのビスケットやらバナナやらを一周ごとに補給していました。残念ながら途中で飽きてしまい、続きませんでしたが。
再びコースに出て、10時ぐらいまでは歩かずにいたのですが、10時を過ぎるぐらいから、歩いている人になかなか追いつけないぐらいのスピードまで落ちてきました。自分より年上のランナー、お世辞にもフォームがあまりきれいでないランナーにまで本当に何度も何度も抜かれて気が滅入ってしまいます。何とか100キロまでは歩かずに粘りたいと考えていましたが、早歩きのランナーに抜かれるようになったため、80キロ余りで走るのをやめ、上り坂の部分(約600mぐらい?)を早歩きで歩くことにしました。
体への負担が少し軽くなったのか、4、5周は順調にタイムを回復しましたが、やはり足首が痛いためか、走り始めてからのスピードが上がらなくなり、歩くスピードも早歩きから普通の歩きになってきました。体が思うように動きません。
夜になり、月が出ていました。月明かりと公園の照明で足下は問題ないぐらいに明るく、夜のジョグとしてはすばらしい環境でしたが、実際には気持ちよくは走れませんでした。だんだんとしんどいという感じから、痛い、つらい、悔しいという気持ちに変わってきました。歩きながら、そしてよたよたと走りながら、入賞を意識して臨むという分相応でないことを少しでも考えてしまっていた自分が情けなくなり、相当へこみました(この気持ちはしばらく思い出したくない、大会のことは誰にも話したくないなあとさえ思いました)。
その上、月が高く上がるにつれ気温が低くなり、痛い、眠い、寒いの三重苦で体も相当にやられました。半分寝ながら歩き、路肩の芝生の感触で目が覚めること数回。距離が稼げる訳でもなく、相変わらず、リレーチームだけでなくシングルのランナーにも抜かれ続けました。抜かれるというのは、普段はあまり何とも感じないのですが、周回コースで何度もされると自分の存在が否定されているような気になります(抜いた人にそういう気持ちは全くないでしょうが)。12時過ぎてようやく100kmを超えたものの、それ以上は距離がなかなか伸びず、時間がやたらかかるようになり、「無期限休養」の絶望的な気分でピットに入りました(結局100kmは12時間半ぐらいでしたか。これでも十分な記録ですが・・・)。 もう、ゴールのことは考えていませんでした。棄権はしないと思っていたのでゴールはするだろうけど、これから何km歩けるのか見通しが持てなかったし、これから昼まで11時間ぐらい眠り続けて終了を迎えることもあるかもしれないとも思いました。
今考えれば、痛みに対する対策を全くしていませんでした。スプレーやテーピング、痛み止め(バファリン等々)を持ってきていれば違っていたのかもしれませんが、そうした準備を全くしていませんでした。過去2回のウルトラでは80~90kmぐらいで背中が痛くなり、かなりきつくてエイドごとにおいてあるスプレーにお世話になった記憶があるのに、です。距離が長くなれば、当然、痛みについての対策をしていなければなりません。しばらくエントリーの期間が空いていたことで、このことを忘れていたようです。
1時半か2時前かはっきりと覚えていないのですが、ピットで靴を脱ぎ、持参したキャンプ用マットの上に寝転がりました。寝転がると寝過ぎるので、座ったまま仮眠をとった方がよいようにも思いましたが、どうしても横になりたいと思いました。目覚ましすら準備しませんでした。もう朝まで寝過ぎてもかまんわいという感じでした。起きたところで、この先どうやって距離を稼げばいいのか見当がつかなかったのですから。
目が覚めたのは、それからだいたい35分後ぐらいでしょうか。通常、眠いときに仮眠をとるとだいたい15分ぐらいで目が覚めるのですが、今回はそういうわけにはいかなかったようです。ただ、思ったより目はすっと覚めました。仮眠時間が思ったより少なかったので、直感的に「まだいけるかも」と感じました。寝ぼけているせいか、脚の痛みも感じず、靴を履いてすぐに再スタートしました(コンタクトレンズは結局24時間つけたままです)。
気持ちとは裏腹に、走るのはまだ無理で、なかなか距離は伸びませんでした。寒いので、1周ごとにピットに帰り、ジャージを着たり、ズボンをはいたりして、ふるえながら歩きました。冬の愛媛マラソンで使用する「ファイントラック フラッドラッシュスキンメッシュ」も着用しましたが、体温が上がっていないので効果なし(あたりまえか)。走れば体温が上がるのでしょうが、走れないのでどうしようもありません。着ぶくれし、走る格好でもありませんでした。始めから着替えはしないつもりでしたが、これだけ着込むことになるのは想定外でした。一応、秋口からいつも着ているピステぐらいは持ってきていましたが、あまり役に立ちません。結局、スタート前に会場に出店しているお店で、日焼けして安くなった2009年度の高校駅伝のトレーナー(500円!)を買っていたのですが、その季節はずれの厚手のトレーナーを着て、何とか寒さが治まりました。トレーナーがここで役に立つとは思いませんでした。トレーナーの背中には「まめにつないでさいごまでねばれ」とありました。
こうして二時間余り、効率の悪い周回を繰り返しました。ようやく寒さが治まると、出ると公言して来たからにはせめて恥ずかしくない記録を持ち帰りたいという、見栄っ張りな根性が再び強くなり、とにかく歩き続けました。距離はそれほど稼げませんでしたが、他にも寝ないで励まして下さっている方の存在が支えになりました。実行委員でしょうかボランティアスタッフでしょうか、女性(大学生ぐらい)の方数名が9時ぐらいから夜通し競技場入り口のエイドに陣取り、給水等のお世話をしてくれ、夜中になっても休むことなく拍手で励まして下さいました。私は、通るたびに、その都度会釈していましたが、首が疲れてきたので、明け方前には手話で「ありがとう」といいました。手を挙げるのは抵抗があったし(歩いていたので)、声を出す元気もなかったので。すると彼女たちは、次の周回では拍手ではなく、両手の拳を上下させ「がんばって」と返してくれました。これは本当にうれしかったです。
監察でコース上にいる実行委員の方々も、夜は立つ場所が少なくなったものの、基本的にはほぼ同じ方が同じ場所で、ずっと見守っていて下さっていたようでした。何度か逆回りで周回しながら励まして下さった方もいました。本当に頭が下がりました。下りのところに居てくださった方は、拍手や棒を叩いてリズムをとって下さいました。「カンカンカカンカカンカンカン・・・」みたいな感じで。結構バリエーションも多く、それに合わせて走るリズムを合わせたりもしました。
明け方になり、山の方がきれいな朝の色になってきました。以前、単車で遠距離通勤をしていた時によく見たきれいな「あお」でした。あの頃は何もかも「単車」でした(そういえば、片道80kmということは往復で160kmかあ・・・と今思いました)。こうして自分の脚で走っていることの不思議さを感じました。足首の痛みは少し軽くなって来て気分を持ち直し、このペースで残りどれだけいけるかを頭の中で計算しました。結果、走りを少し増やせばとりあえず140kmには乗せることができるかもしれないということになりました。それぐらいなら、帰っても報告できる数字かなという感じで、少し元気になると見栄が出てきたようでした。そして目標が持てたことで、残りの7時間ぐらいはひたすら1周を重ねることだけに集中しました。
途中経過は、まめに更新されて本部に掲示されていたようですが、無視しました。順位を気にする自分の気持ちに腹が立っていましたので。結局、そのうち確認しようと思っていた順位は最後まで一度も見ないままでした。
シングルの参加者のほとんどは、いすと机がある本部とは反対側のピットにいたようです(移動するのが面倒だったので、結局床にマットを敷いていろいろ物を並べ、自分のピットスペースを作ったのですが、始めにいすも机もあることを確認できていたら、儂もそちらにいっていたかもしれません)。結果、私はリレーチームが仮眠をとったり談笑している方が多いピットにいたわけですが(他にはシングルの参加者は2、3名でしたか?)、終始シングルの参加者をピットであまり見なかったことが逆に、最後の最後になって他人を気にせずに走れたのかもしれません。
日が昇り気温が上がり、基本的に1時間に3周回というペースを堅持し(約6.6km/h)、距離を重ねました。このときはずっと何か考えていたようにも思いますが、全く何も考えていなかったようにも思います。競技場で時刻を確認し、トラックを走り、外のジョギングコースへ出ての下り坂を惰性を使って走り、やがてフラットから上りに差し掛かる頃に歩きに切り替え、再びフラットから下りになるほんの少しの勾配のところで走りにギアを切り替え、そして競技場まで続けて走る・・・を繰り返しました。左の足首は痛かったし、歩きから走りに切り替えるときは、ちょっとした気持ちの切り替えも必要でした。少し止まると次はもう歩けないような気もしていました。やめるならいつでもやめられるぐらいのぎりぎりのところでした。それでも、時間が長いと感じてはいなかったかもしれません。単調であるはずの周回コースもそんなにはイヤではありませんでした。ぐるぐる回りながら、前に進むことだけでした。この間の休憩はほとんどとっていません。
儂は、マラソンの時、レース後半に腹を立てることがよくあります。何故かよく分かりませんが、実際そうです。腹を立てると言うこと自体はあまり好ましいことではないのかもしれませんが、ただ、結果的に推進力の一つにもなります。この時もそうでした。今回は、順位のことを気にしすぎたことが、腹立ちの原因だったと思います。もっと純粋に走ることと向き合いたいと思いましたし、そのギャップの中にいる自分を情けないと思いましたし。
残り10分を残して最終周回へ。24時間ほぼ休みなしで見守ってくださった大会実行委員の方に、一人一人頭を下げ、涙をこらえながら走りました。結局、明け方から再びほぼ休みなしで走り、上方修正して162kmという自分にとっての目標を達成することができました。残りの8時間は、順位(他人)と向き合うことを忘れ、ひたすらの距離(自分)と向き合っていました。たとえ見栄でも、このことが集中を切らさずに、一周を重ねることにつながったように感じます。終わってみれば、自分の走りをするという初心に還っていたマラソンでした。
ゴールに多くの方が出迎えてくださいました。格好悪く、でも堂々と一歩一歩進みました。自身にとっては最高のゴールテープを切ることができました。
泣きました。
初めてのフルとウルトラの時は「もう走らなくていい」という気持ちでした。自身よくやったという涙でもありました。今回は、よくやったという気持ちに加え、いろいろなことに対して「ありがたい」という気持ちの涙が含まれていました(別の言い方をすれば、ここまで走って痛みを感じないと「感謝」という気持ちが出ないということは、儂の器の小ささをそのまま表しているような感じではありますが)。
162km走れたので、順位はどうでもよかったんですが(本当です)、目標をクリアでき、充分満足できたので、軽い気持ちで「とりあえず順位見とこ」と、途中経過の張り紙を見に行きました。周回数間違えてないだろうなという本当に軽い気持ちでした。
泣きそうになりました。
3位でした。
運動音痴で、体育の時間が大嫌いだった儂です。小学校の時は鉄棒も跳び箱も水泳も、クラスの中でいつまでもできない最後の1,2人にいつも入っていました。小中とずっと学年一の鈍足でした。体も弱く、体力も運動能力もありませんでした。
そんな儂でも、この歳になってついに「陸上の大会」で参加賞以外の賞を頂くことになりました。恥ずかしいので、参加者15名(結局2名出走していなかったことを最後に知りました)だったから、という言い訳はします。でも、3位は3位なので。162kmちゃんと走っていますので。
最後の最後になって順位にこだわっている自分をさらけ出してしまい、ちょっと「何だかなあ」という気はしないでもないのですが、レース後半、そうした自分と向き合った結果での順位なので素直に喜ぼうとも思いました。
儂を抜きまくっていたはずのランナーは、それほど周回を重ねていなかったようでした。何故かよくわからないのですが、休憩を思ったよりとっていたのではないかと思いました。儂のピットに入った時間は、ものを食べたり飲んだりトイレに行ったり仮眠とったりの合計が1時間54分で、残りの時間はずっとコースに出ていたということになります。不格好でゆっくりでもしつこくしつこく、そして見栄っ張りな根性が源ではあるにしても、とにかく回数を重ねたことが結果に表れたようです。
帰りのバスの時刻が近付いています。その次の2時間後のバスでは、神戸からの高速バスに間に合わないので、急いで帰り支度をしなければなりません。感動もそこそこに、ゴミも残った食料も、マットも着替えもとにかく鞄に放り込み片付けました。24時間はきっぱなしのCW-Xのタイツなんかそうそう簡単に脱げません。トイレで足がつりそうになりながら必死で脱ぎました。
むぎゅむぎゅと脚で地面を踏みしめるごとに、左の足首から音がするような気がします(実際かなり腫れ、水がたまっているような感じでした)。ゆっくりと競技場を出て、バス乗り場に行くと、実行委員の方が何名かバス待ちをしていました。少し照れくさいような感じで、お互いに顔を合わせました。バスに乗り、電車を乗り継いで三宮へ行き、喫煙席しか空いていなかったマクドの席に座りようやく軽く「昼食」をとりました。ビールが飲めれば良かったけど、いい店を見つけることが出来ませんでした。足が痛くて探し回るのも大変だったし。
結局、高速バスに乗り込んですぐに500mlを一本「くぐっ」と一気に飲んだとたんに意識がなくなりました。窓の外に「今宮」という文字が見えたのが最後でした。高速にはまだ入っていなかったはずです。ビールがうまいとかのレベルの話ではなかったようです。
そして、左足やら右膝やらの治療で一週間ぐらい難儀なことになります。
162kmは約100マイルと少し。100マイル超えというととんでもないことをしたような気分です。160kmというのはそれほど飛び抜けた記録ではないとは思いますが、100マイルという響きに改めて達成感を感じます。
今回走りきったことで、まだ長距離は自分の伸びしろがあるということを確認することができた点も大きな収穫でした。最近、走ることのモチベーションをどこに求めるか悩んでいたので(記録的にはフルはもう無理だろうし、かといって100kmもあれ以上の記録は考えられないという点で)、もうしばらく、今のままの練習を続けてみようと思いました。体力的には下り坂ですが、しぶとさは今より向上するかもしれませんし。
次は、フル4回分の約168kmが目標です。エントリーはもう少し先のことになるはずです。
最後に・・・。
雰囲気のよい大会でした。思っていた以上の貴重な経験をすることができました。リレーチームの楽しそうな様子と、襷をつなぎながらみんなでゴールを目指すというリレーならではの成就感、達成感を想像し、いつかはリレーの部に出てみたいと思いました。
振り返れば、山の中、決して消えない明かりに希望を託し、ぎりぎりのところで自分と向き合いながら歩きました。顔をゆがめフォームを崩しながら、何時間たってもひたすらに前に進む他のランナーに、自分も負けないようにと頑張ることができました。
そして、実行委員の方々の休むことない励ましと見守りに勇気づけられながら走りきることができました。他人のために24時間支えることの尊さは、走ることが好きだからというだけでは説明できません。ありがとうございました。本当にありがとうございました。