きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

マラソンランナー

2012-07-22 20:42:49 | 徒然に2010-2013
タイトルがあまりに露骨過ぎ、あまり読む気がしなかったが、つい買った。いつものブックオフ100円本です。後藤正治著。
マラソンというのに限って、と言うわけでもないのだろうが、ランナーの考え方、というか、より深い、時代の流れに影響された面も含めての精神論的な(著者の)語り(つまりランナーへの語らせ)が、非常に興味深かった。走ることは哲学である。

金栗四三
孫基禎
田中茂樹
君原健二
瀬古利彦
谷口浩美
有森裕子
高橋尚子

君原健二以前と以降では、走るという条件(というか環境)においてどうしても時代背景が違う分、ランナーの考え方も、ちょっと違う気がする。君原健二までは、国を背負うというか、自分以外のものに突き動かされる感じで走っていたように感じる。そして君原健二以降のランナーも、天賦に恵まれた、と思いがちだが、やはり努力の量は並のランナーとは違うことに改めて気付かされる。そしてそれぞれ同じ世代に競った人物の存在も記述されていて興味深い。

そして円谷幸吉。著者に言わせれば、すべてのランナーに多かれ少なかれ影を落としているようだが、実際どうなのだろう。同世代以外のランナーにとっては伝説でしかないのかもしれないが。
「父上様母上様 三日とろろ美味しゅうございました・・・」という遺書が、ずんとくる。著者も指摘しているように、時代が違う。もっと前の戦前か明治かの遺書である。
もう走れないという、本当に走れないという気持ちになったのか、走れないという事実に直面したのかそれが分かってしまったのか、どっちなのか分からないけど、そうしなければならなかった円谷の気持ちを考えるとどうなんだろうと思う。時代のせいにも本人のせいにもできない。国家のせいにもできない。円谷の走りで勇気づけられ、励まされた人は多いはずだろうし自分の想いとは離れたところで。

トラック競技はある程度の才能が必要である。しかし、マラソンは努力すればするほど結果になって現れるという。トップランナーは誰もがそれをいう。瀬古利彦がそういうことを言うのは意外だった。虚像に誤魔化され、実像を見ていなかったのかもしれない。
とすれば、時代が変われども、本当にみんな愚直に走っていたのだということである。愚直に努力していた。目的や考え方こそ違えど、ということだと思う。

君原健二の「がんばり抜いた」と自分で評価できるレースが会心のレースだという考え方はなるほどど思う。
自分にとっての会心のレースは、確かに自己ベストの大会ではない(ただ、最も印象に残るレースではある)。会心のレースは悪いなりに、それを乗り越えたという点で納得がいく(一昨年の愛媛かな)。記録ではなく、自分が納得いくかどうかという点に最も重きを置くというのも興味深い。そういえば君原健二さんは、愛媛マラソンも走っていたな。君原さん必死で抜いた記憶がある。

金栗足袋とか坂出青年とか興味引くキーワードも出てきた。市民ランナーとして、猫ひろしのマラソン指南本(まだ読んでない)を初めとしたマラソンメソッド本読むくらいなら、村上春樹の本と合わせて必須科目の教科書としてこれ読んどけって感じです深いです。

そういえばもうすぐ倫敦五輪。