この夏の入院前、大量に買い込む。
珍しく小説が多かった。以下短評。
1 火花(又吉直樹)
小学生に「読み」の指導をする際に、一読総合法とか三読法とかいう方法がある。この作品に関しては一読では全体像がつかめない。特に中盤のところ、掛け合いのところは読み込む必要を感じる。
吉祥寺が舞台になっているところはリアリティがある。儂だけが見ることのできる景色がある。
2 猫を抱いて象と泳ぐ(小川洋子)
「最期」のところを読み終えた時、背中から痺れた。チェスはよく知らないが、小説全体が優雅なメロディの中で進行している感がある。
小説というのもまた語り手と聞き手の相互作用なのだと改めて感じた次第。
3 霞町物語(浅田次郎)
昭和30年代、リーゼント、エヌコロ、カマロ。
こういう時代、こういう場所が、確かにあったんだろう。
タイムスリップした感じで読み進めていった。
4 理工学部卒のお坊さんが教えてくれた、こころが晴れる禅ことば(泰丘良玄)
誤解を恐れずにいうなら、念仏唱えるより禅の方が格好良い、と思う。
信長の焼き討ちにあった坊さんがいった台詞だったか。
いろいろな解釈があるのかもしれないが、少なくとも儂は好きである。
5 その日のまえに(重松清)
病院で読むと違った感じがする。
その日、の前と後。
染み込む。
6 靖国神社(島田裕己)
一つのテーマを自分なりにまとめようとするなら、その何倍もの資料に当たる必要があることを改めて知る。偏っていることを自覚した著作ならまだしも、それが自覚できていない主張はそのプロセスが不足している。
資料に当たるのは研究者で、ジャーナリストは人や直接事実に当たる、ということか(例外はあるのは承知の上)。
宗教学者ならではの広い知見に基づいた考察も素晴らしい。
7 ランナー(あさのあつこ)
最後の最後、終わり方についていけず脱落。うーん。
走ることは、というより走ることでいろいろなものが剥げ落ち研ぎ澄まされていくということ。
いろいろなものを背負って走る、ということをよく聞くが、真髄は確かにそちらの方かもしれない。背負って走るという時点で、何かに転嫁している。
著者の作品は、フィニッシュゲートから、を先日読んだ。
この作品より、ランナーの周辺にいろいろな要素が散りばめられていて、重かった。重い話だったが一気に読んだ。
もう一回読まないと、最後の2ページの意味するところが分からん。火花とは、違った意味で要再読である。
何となくで読み進める悪い癖がある。多分、先が知りたいから斜め読みになるんだろうなと。治らんな。
8 歩兵の本領(浅田次郎)
リアルである。どこまで本当なのか、というより人間臭い隊員も組織の有り様も含めて一つのノンフィクションなんだろうな。
浅田次郎は、昨年オークションで落とした訳あり品のソニーの電子書籍リーダーで読んでいて、これがかなりの長編だったにもかかわらずぐいぐいと読み進めていった覚えがある。
訳ありというのは新しい本が入れられないということで、読み終わってからは手放したが、買えばそこそこになるので紙の本ならなかなか購入しようとは思わなかった筈。
まだまだ知らないことがあるなあと。
9 阪急電車(有川浩)
グーグルマップで場所を確かめながら読む。
ほのぼのしていて、どきどきして、良い話だった。
阪急今津線、ピーチを使うことができる機会があったら走ってみたい。
10 パーク・ライフ(吉田修一)
又吉直樹同様、初めて読む作家。割合作家で本を選ぶ傾向が強い。
静かで映像的で、洗練された感じがして、実はこれもある種の日常なのかもしれない。
随所に共感できる台詞があった中、秀逸なのは「周りの人たちとうまくやっていきたいからこそ、土日ぐらいは誰とも会わず、誰とも言葉を交わさずにいたい」というトコロ。
他の本には共感というより学んだり感心したりするコトバが多いのだが。
もう一編は、静かな流れの中で人物が物語が躍動し、面白い作品。ただじわじわともう元に戻ることができなくなっていく怖さとその受け入れ方がリアルであった。
11 友がみな我よりえらく見える日は(上原隆)
以前、ブックオフの100円本で手にして以来の再読。
この作者の書いたものは割に受け入れ安い。
フィクションとノンフィクションの境目は曖昧である。
本というのはつまらなくても途中で止めることができにくい。しかし、時間を使って対峙するものである以上、つまらなければ途中で止めることに積極的な意味を持たせてもいいのかもしれないという気がしている。そして、この本のように再読することも十分に意味あるものととらえる必要がある。
12 ショートサーキット(佐伯一麦)
この作者の作品は、大学の時か就職し始めの時に読んだ。短編ながらずっしりと重い文体。時代が古いが割合映像がよく浮かんで来た。
初めのところは、そこだけで終われば、充分に破滅的で行き先の見えない、というよりあまり良くないエンディングを孕んでいる短編。しかし、読み進めるうちに、かなり現実的な私小説の体をなしてきて、読み応えがあった。
恐らく形こそ違えど、家族が抱えているいろいろな負のものも一緒くたに背負って働く父の姿に共感した。
初めの短編読んだだけではこういう展開になるとは思わなかった。
電気工事に関する詳細な記述ははらはらさせられ、浅田次郎の自衛隊の話のようなリアルな描写に嵌った。
夫婦の微妙な距離感、こちらも「あるある」で、いい意味で裏切られた小説。
13 私が若かった頃(大江健三郎)
これでも大江作品は、何作か読んだことがある。いつも何度かページを戻りつつ読み返すこと、また、細かな描写はスルーすることが常だが。
でもそうすることで薄暗い内子の山間の風景がぼんやりと浮かんでくるのが不思議。
相変わらず気を抜くと全く意味がとれないながらも何とか頑張って読む、という表現が相応しい。
作者が張り巡らした糸に気付かずにスルーしてしまうことが多い。
読むというより活字を追うという自分の姿勢が現れている。
ちなみに。
「オヤジの本棚を荒らす」みたいなことに結構、憧れていたりする。親の本を子供が勝手に読む。何てすばらしい構図かと。
しかし、我が家の場合、ムスコもムスメもそれほどは荒らしてはいないようで。
昨年、「断捨離」の影響で自分自身がモノを持つことに抵抗を感じ始め、本棚3つ分一気に処分。約25年分の書籍。昨年8月のことである(9月に大事故に遭ったから、何か示唆するモノがあったか)。
その後は、電子書籍のアカウントをとりあえずムスメとムスコには知らせている。オヤジの書籍はネット上にある、ということ。
読書の秋といいながら、あんまり活字が追えていない昨今。そういえば今日は、読書の日。
昨日から、ずっと読みたかった下川裕治の不思議列車がアジアを走る、を読み始める。
以下、翌日追記。
どちらかというと、読み切らなければ「負け」の感覚はある。でも確かにそうではないな。
途中で切る勇気も必要だと最近は思う。
珍しく小説が多かった。以下短評。
1 火花(又吉直樹)
小学生に「読み」の指導をする際に、一読総合法とか三読法とかいう方法がある。この作品に関しては一読では全体像がつかめない。特に中盤のところ、掛け合いのところは読み込む必要を感じる。
吉祥寺が舞台になっているところはリアリティがある。儂だけが見ることのできる景色がある。
2 猫を抱いて象と泳ぐ(小川洋子)
「最期」のところを読み終えた時、背中から痺れた。チェスはよく知らないが、小説全体が優雅なメロディの中で進行している感がある。
小説というのもまた語り手と聞き手の相互作用なのだと改めて感じた次第。
3 霞町物語(浅田次郎)
昭和30年代、リーゼント、エヌコロ、カマロ。
こういう時代、こういう場所が、確かにあったんだろう。
タイムスリップした感じで読み進めていった。
4 理工学部卒のお坊さんが教えてくれた、こころが晴れる禅ことば(泰丘良玄)
誤解を恐れずにいうなら、念仏唱えるより禅の方が格好良い、と思う。
信長の焼き討ちにあった坊さんがいった台詞だったか。
いろいろな解釈があるのかもしれないが、少なくとも儂は好きである。
5 その日のまえに(重松清)
病院で読むと違った感じがする。
その日、の前と後。
染み込む。
6 靖国神社(島田裕己)
一つのテーマを自分なりにまとめようとするなら、その何倍もの資料に当たる必要があることを改めて知る。偏っていることを自覚した著作ならまだしも、それが自覚できていない主張はそのプロセスが不足している。
資料に当たるのは研究者で、ジャーナリストは人や直接事実に当たる、ということか(例外はあるのは承知の上)。
宗教学者ならではの広い知見に基づいた考察も素晴らしい。
7 ランナー(あさのあつこ)
最後の最後、終わり方についていけず脱落。うーん。
走ることは、というより走ることでいろいろなものが剥げ落ち研ぎ澄まされていくということ。
いろいろなものを背負って走る、ということをよく聞くが、真髄は確かにそちらの方かもしれない。背負って走るという時点で、何かに転嫁している。
著者の作品は、フィニッシュゲートから、を先日読んだ。
この作品より、ランナーの周辺にいろいろな要素が散りばめられていて、重かった。重い話だったが一気に読んだ。
もう一回読まないと、最後の2ページの意味するところが分からん。火花とは、違った意味で要再読である。
何となくで読み進める悪い癖がある。多分、先が知りたいから斜め読みになるんだろうなと。治らんな。
8 歩兵の本領(浅田次郎)
リアルである。どこまで本当なのか、というより人間臭い隊員も組織の有り様も含めて一つのノンフィクションなんだろうな。
浅田次郎は、昨年オークションで落とした訳あり品のソニーの電子書籍リーダーで読んでいて、これがかなりの長編だったにもかかわらずぐいぐいと読み進めていった覚えがある。
訳ありというのは新しい本が入れられないということで、読み終わってからは手放したが、買えばそこそこになるので紙の本ならなかなか購入しようとは思わなかった筈。
まだまだ知らないことがあるなあと。
9 阪急電車(有川浩)
グーグルマップで場所を確かめながら読む。
ほのぼのしていて、どきどきして、良い話だった。
阪急今津線、ピーチを使うことができる機会があったら走ってみたい。
10 パーク・ライフ(吉田修一)
又吉直樹同様、初めて読む作家。割合作家で本を選ぶ傾向が強い。
静かで映像的で、洗練された感じがして、実はこれもある種の日常なのかもしれない。
随所に共感できる台詞があった中、秀逸なのは「周りの人たちとうまくやっていきたいからこそ、土日ぐらいは誰とも会わず、誰とも言葉を交わさずにいたい」というトコロ。
他の本には共感というより学んだり感心したりするコトバが多いのだが。
もう一編は、静かな流れの中で人物が物語が躍動し、面白い作品。ただじわじわともう元に戻ることができなくなっていく怖さとその受け入れ方がリアルであった。
11 友がみな我よりえらく見える日は(上原隆)
以前、ブックオフの100円本で手にして以来の再読。
この作者の書いたものは割に受け入れ安い。
フィクションとノンフィクションの境目は曖昧である。
本というのはつまらなくても途中で止めることができにくい。しかし、時間を使って対峙するものである以上、つまらなければ途中で止めることに積極的な意味を持たせてもいいのかもしれないという気がしている。そして、この本のように再読することも十分に意味あるものととらえる必要がある。
12 ショートサーキット(佐伯一麦)
この作者の作品は、大学の時か就職し始めの時に読んだ。短編ながらずっしりと重い文体。時代が古いが割合映像がよく浮かんで来た。
初めのところは、そこだけで終われば、充分に破滅的で行き先の見えない、というよりあまり良くないエンディングを孕んでいる短編。しかし、読み進めるうちに、かなり現実的な私小説の体をなしてきて、読み応えがあった。
恐らく形こそ違えど、家族が抱えているいろいろな負のものも一緒くたに背負って働く父の姿に共感した。
初めの短編読んだだけではこういう展開になるとは思わなかった。
電気工事に関する詳細な記述ははらはらさせられ、浅田次郎の自衛隊の話のようなリアルな描写に嵌った。
夫婦の微妙な距離感、こちらも「あるある」で、いい意味で裏切られた小説。
13 私が若かった頃(大江健三郎)
これでも大江作品は、何作か読んだことがある。いつも何度かページを戻りつつ読み返すこと、また、細かな描写はスルーすることが常だが。
でもそうすることで薄暗い内子の山間の風景がぼんやりと浮かんでくるのが不思議。
相変わらず気を抜くと全く意味がとれないながらも何とか頑張って読む、という表現が相応しい。
作者が張り巡らした糸に気付かずにスルーしてしまうことが多い。
読むというより活字を追うという自分の姿勢が現れている。
ちなみに。
「オヤジの本棚を荒らす」みたいなことに結構、憧れていたりする。親の本を子供が勝手に読む。何てすばらしい構図かと。
しかし、我が家の場合、ムスコもムスメもそれほどは荒らしてはいないようで。
昨年、「断捨離」の影響で自分自身がモノを持つことに抵抗を感じ始め、本棚3つ分一気に処分。約25年分の書籍。昨年8月のことである(9月に大事故に遭ったから、何か示唆するモノがあったか)。
その後は、電子書籍のアカウントをとりあえずムスメとムスコには知らせている。オヤジの書籍はネット上にある、ということ。
読書の秋といいながら、あんまり活字が追えていない昨今。そういえば今日は、読書の日。
昨日から、ずっと読みたかった下川裕治の不思議列車がアジアを走る、を読み始める。
以下、翌日追記。
どちらかというと、読み切らなければ「負け」の感覚はある。でも確かにそうではないな。
途中で切る勇気も必要だと最近は思う。