先日仕事絡みでまとめた話。
ちなみに情報を保障する場合、補償でも保証でもないあくまで保障。そして聞こえない者聞こえにくい者いろいろいろいる人々を強引にくくる言葉として、便宜上「聴覚障害者」という言葉を用いる。その前提の上で。
先日の鳥取の条例の話にもあったが、手話を言語として認めるということは、手話による情報を保障することであると言い換えることもできる。勿論この言い換えですべてを表すことはできないが。
で、気をつけなければならないのは、手話による保障は勿論、情報を保障することが本来は大切であるということ。
手話イコール聴覚障害者(まあろう者はイコールかもしれないが、聴覚障害者イコールろう者ではないし)ではないわけで、本来聴覚障害者とくくられる人というのは、程度も得意な手段もばらばらであり、手話に限らず、いろんな形で情報が保障されることが必要なわけで。
よって、情報を提示する側が「手話通訳のみでいいのではないか」「文字のみでいいのではないか」と判断することは避けなければならない。
また、聴覚障害のある子どもに情報保障を行う場合。大人とは別の重要性も含まれてくる。例えば、情報の考え方の1つに「プッシュ」と「プル」がある。
プッシュ・メディアは(絶えず)情報を流す類のモノ。このメディアに接する場合、受け手は、情報を受動的に受け取る(勿論その中から選択的に受け取るわけだが)。
一方、プル・メディアは受け手からのアプローチを待つ類のモノ。受け手は、このメディアに対して必要に応じて選択的能動的に情報を取りに行くことで情報を得る。
聴者がどちらでもできるのに対し、聴覚障害者は待っていても得られる情報は少ないといえます。よって、自分から情報を取りに行く姿勢(プル)が不可欠になる。だから、
聴覚障害のある子どもにとって、自分がどの方法なら分かるのか、大丈夫なのかという自己認識を育てる上でも、「複数の」手段呈示や呈示された情報の確実さが必要になるのだと考える。
この点、情報保障が権利保障にとどまらない側面があるとも言えるかも。
聴者はどちらでもでき、聴覚障害者は片方しかできないと感じた経験はたくさんある。最近印象に残っているのは、5年前の職場での会話。
儂「さっきのAさんの話、よく分からんかったですけど何だったんですか?」
Bさん「別に聞くほどのことじゃないよ。聞かなくてよかったよ時間の無駄だから」
これを真面目に言われた。Bさんは結構な「人格者」だと思っていたし実際そうなのだろうが、やはり聴者が聴覚障害者を理解するのは難しいなと感じた。
Bさんは、受動的ではあるが、情報を全部受け取った上で判断ができる。儂は、その情報の良否の判断を自分ができておらず、Bさんの判断基準に依存「させられている」。ここが聞こえる人には分かりにくく見落としがちな点ではないかと。何故なら、Bさんは「好意」で言ってくださっている訳だから。聴覚障害者に理解があるように思える人でも、案外視点が違うのかなということを、こうした会話の折に感じることは多い。
これから、合理的配慮とか、基礎的環境整備とかいう言葉がどんどん使われ始めると、もっといろいろなケースが顕在化しそうに思うのだが。
一方、予算も人手も限られていて、ないない尽くしの中で行う情報保障は、適切に真面目に行えば行うほど、負担が増すのも現実。
担当の割り振り等々係としては、正直頭が痛い。確かに。
鳥取県の記事見つけた。
今日は、職場関係で二人も名前載っていて、凄い日だった。