白雲去来

蜷川正大の日々是口実

東亜侵略百年の野望をここに覆す。

2010-12-09 11:55:53 | インポート

十二月八日(水)晴れ。大東亜戦争開戦記念日。

 起床後、靖国神社の英霊を思い、黙祷す。今日は開戦記念日である。現在は、先の大戦を太平洋戦争と呼称しているが、これは誤りである。

 

 「大東亜戦争」名称は、真珠湾への奇襲攻撃から二日後の、昭和161210日の大本営政府連絡会議によって決定され、同1212日に閣議決定された。閣議決定「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」は、その第1項で「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と明記し、「大東亜戦争」の呼称と定義を正式に決定した。同日情報局より、「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と呼称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず」と発表され、この戦争はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定した。この方針は1943年(昭和18年)11月の大東亜会議で「再確認」がなされている。

 

 向田邦子さんの原作によるドラマに嵌まって、ほとんど見た。時代考証や当時の庶民の生活習慣などもリアルに再現されて、とても勉強になったが、ただ残念だったのは、「太平洋戦争」と呼び習わしていたことだ。いつも違和感を覚えていた。

 

 しかし、この日、ジョン・レノンの追悼特集は報道しても、西洋列強による亜細亜の植民地化に対して、その解放の為に立ち上がった先の戦争の意義と意味を説くマスコミは皆無であった。いつの日か、極東の小さな島国である日本が、西欧列強となぜ三年半に渡って死闘を演じたのか・・・。その大義が必ずや明らかになるに違いあるまい。

 

 「今こそ討てと詔(みことのり)。奮い立ちたる一億の、この民族の感激を、敗けたからとて忘らりょか。そうだ敗けても国守る、大和魂我にあり」

  我が家で、仲村武彦先生作の「大和魂の歌」と「大東亜決戦」の歌を高らかに歌った。

1.起つや忽ち撃滅の
勝鬨挙る太平洋
東亜侵略百年の
野望をここに覆す
いま決戦の時きたる

2.行くや激しき皇軍の
砲火は叫ぶ大東亜
一発必中肉弾と
散つて悔いなき大和魂
いま尽忠の時きたる

3.見よや燦たる皇国の
歴史をまもる大決意
前線銃後 一丸に
燃えて轟くこの歩調
いま興国の時きたる

4.いざや果さん十億の
アジアを興す大使命
断固膺懲堂々と
正義貫く鉄石心
いま決戦の時きたる


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暁に祈る

2010-12-09 09:50:48 | インポート

十二月七日(火)曇りのち雨。

 私は自慢ではないが、いや自慢できないほどのオンチで、従ってカラオケなどは余り好きではない。それでも場の雰囲気を壊してはいけないので、そこそこお付き合いはするが、歌のレパートリーは、わずか三曲しかない。「高校三年生」「月光仮面」「暁に祈る」の三曲である。

 

 軍歌の中では、その「暁に祈る」が好きだ。この歌は、昭和十五年に封切られた同名の映画の主題歌として発表されるや、たちまち大ヒットとなった。作詞は、野村俊夫、作曲は古関祐而の福島県人コンビ。映画は、佐々木康監督、田中絹代ほか出演の映画。軍馬を軸に前線の兵士(夫)と銃後の妻を描いた作品。松竹大船撮影所製作。昭和十五年の四月封切り。

 

 映画のサブタイトルは「征戦愛馬譜」とあるように、軍馬に対する認識と関心を高めるために陸軍省馬政課が指導、後援して作ったもので、中国大陸でロケを行い、実戦部隊を動員して撮影した。ちなみに、この時の陸軍省馬政課長は、硫黄島で戦死なされた栗林忠道である。

 

 この有名な主題歌「暁に祈る」のほか、挿入歌として、妻の心情を歌った「愛馬花嫁の唄」や愛馬進軍歌」がある。二曲とも当時の国民に広く歌われた。

 

 なぜのっけからこんな話をしたかといえば、金星探索を目的して宇宙に飛んだのが探索機の「あかつき」である。私は、宇宙の事に関してはとんと素人だが、日本国民の一人としては、是非共、金星探索に成功して宇宙の神秘を解明してもらいたいものだ。と、祈るような気持ちで「あかつき」が金星の周回軌道に入ることを願っていた。だが、国民の祈りも空しく、どうやら失敗したとのこと。

 

 そんな訳で、恒例の名前だけは真面目な「蜷川政経懇」を中学の同級生が経営する野毛の「弥平」で開催した。二次会は、サリーの店へ。そこで「あーああの顔で、あの声で、手柄頼むと妻や子が」と「暁に祈る」を歌った。

コメント (1)
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暮の挨拶回りに出かけた。

2010-12-09 08:56:06 | インポート

十二月六日(月)曇り。

 子供達は元気に学校へ行った。家人の手首がまだ治らないので、相変わらず主夫業が続いている。さすがに飲んだ次の日などは起きられないので、なるべく深酒をしないようにしている。

 

 朝から、暮れのあいさつ回りに出かけた。自宅に志村馨、松本佳展の両君に迎えに来てもらい、横浜から川崎、そして東京へと日頃からご挨拶になっている方々へ粗品を持ってご挨拶に回った。三時過ぎに帰宅。志村君は、これから少し寝て仕事に出かけるという。皆、運動と仕事を両立しながら頑張っている。言うまでもなく、社会運動の原点の姿である。

 

 帰宅してから、慌てて連載させて頂いている「実話時報」の原稿にかかる。締め切りが過ぎているので、頑張って、脱稿した。そんな訳で、今日は、休肝日とした。


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雨漏りのこと。

2010-12-09 08:45:12 | インポート

十二月五日(日)晴れ。

 先日の季節はずれの暴風で、鎌倉では屋根の瓦が飛ぶ家が続出したと言うが、我が家では、食卓の天上から雨が漏った。慌てて、大き目のボールを出して雨を受けたが、雨漏りを見ていると母と暮らしていた子供の頃を思い出す。

 

 小学校の低学年の頃、横浜の下町の西仲町という所の安アパートに住んでいた。横浜の下町は、黄金町駅を中心にして空襲の被害が最もひどく、終戦から十年程度ではまだ完全に復興がなされておらず、私が住んでいたアパートでも、別段子供心に、恥ずかしいと思う事がなかった。トタン葺きの屋根は、夏は焼けて暑く、当然ながら冬は寒く、大雨が降ると、約束したように雨が漏った。

 

 確か、渋沢栄一だと思ったが、仕事に没頭していて自宅などを顧みる暇がない。ある時、部屋に雨漏りがすることを訴えた妻に対して、彼が言った言葉は、「雨漏りのしない部屋で寝なさい」というものだった。私と母が住んでいた部屋は一間なので、逃げようがなく、雨漏りのしない場所を選んで布団を敷いて寝た。

 

 雨漏りなど経験のない家人が、ステンレスのボールで、そのまま雨を受けるように置いているので、「中に雑巾を敷かないと雨が跳ねるよ」と教えてあげた。考えて見れば、この言葉は、私が小さい頃に、母から言われた言葉だった。

 

 台風の時は、決まって雨漏りがしたので、外に買い物に行けず、そんな時は、取って置きのカンズメを開けた。今の人たちは、カンズメがご馳走などと言うと、信じられないかもしれないが、私の子供の頃は、カンズメが貴重品だった。停電などして、ろうそくの明かりの中で、カンズメを開けて食事を取るときなど、母との妙な連帯感を憶えたものだ。

 

 夕方から、上の子供の眼鏡を取りに行った。友人のY氏の紹介の眼鏡屋さんで作ったのだが、レンズとフレームで八千円でお釣りがきた。もっと高いものを買わされるのかと思っていたのでホットした。その後、有隣堂へ。原稿用に、中西輝政氏の「日本人として知っておきたい近代史」(PHP新書)を買った。この本は、民族革新会議の犬塚博英議長から薦められたもの。本当は、その後にすぐに買って読んだものだが、どこにも見当たらないので、再度購入した。安い新書で良かった。

 


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