白雲去来

蜷川正大の日々是口実

前夜祭

2011-10-18 10:57:47 | インポート

十月十四日(金)のパートⅡ

 明日の、野村先生の追悼祭「群青忌」に出席するために地方から、社友がヨコハマに来訪するので、その受け入れの準備に追われた。

 

 六時半に、関内のホテルのロビーにて集合した社友は、札幌の「あんみつ軍団」こと、梶浦直樹、山本和八の両君。そして関西から、山内愁雲、森下保昌の両氏、新潟の山田喜一氏、静岡の金森了脩氏、今回初参加した長野の伊藤氏。迎えるのは社友の松本君と小枝ちゃんと大工の秀ちゃんに私。仕事帰りの愚妻にも顔を出して貰い、皆にご挨拶。

 

 前夜祭の食事会を、関内の「おじゃまむし」という小料理屋で行なった。初参加の伊藤さんは、私のご同輩で、「大悲ジャーナル」以来の読者である。当然、初対面という気がしない。野村先生の話題や世相を肴に酒が勧む。明日が早いので、一応今日はこれで解散。有志は、隣のビルにある「サリーズ・バー」へ行ったらしいが、私は、秀ちゃんと一軒転戦して自宅に戻った。


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またヨコハマの男が亡くなった。

2011-10-18 10:04:17 | インポート

十月十四日(金)晴れ。

 柳ジョージが死んだことをニュースで知った。在りし日の彼の姿が映し出されている中で、サリーとサリーパパと一緒に写っている写真があった。

 

 柳ジョージを初めて見たのは、私がまだ十代の頃で、場所はヨコハマの馬車道にあった中川三郎のディスコティックだったと思う。確かBebes(ペペズ)という名前のバンドで出演していた。このバンドはヨコハマでは当時から有名で、玄人受けするバンドだった。ジミヘンやフリートウット・マックなどの曲やブルースを得意にしていたので、ディスコではあまり受けず、不良から「踊れる曲をやれよ」などと野次が飛んでいたのを思い出す。

 

 記憶違いでなかったら、ボーカルは、チー坊ちゃんで、ドラムは、私の友人の野木三平君の兄貴の信ちゃん。彼は今でも時々サリーの店で会う。ギターは、これまたヨコハマでは有名なギターリストの陳信輝。柳ジョージはベースを担当していたのではなかったか。その後、パワーハウスと名前を変えて「バック・イン・ザUSSR」でレコードデビューした。その頃は柳ジョージは、そのバンドに参加していなかったが、なぜか思い出が重なるのは歳のせいか。チー坊ちゃんのバンドは、ヨコハマMUGENや、そこの支配人だった人がスカウトされてオープンした元町のアストロで良く見た。

 

 そういえば、私が愚妻と、親しい友人たちを集めて入籍のパーティーを、エディ蕃がプロデュースしていたライブハウス、「ストーミー・マンデー」で行ったときに、チー坊ちゃんが友情出演してくれた。その時のメインバンドは、元ジャガースの沖津久幸氏と彼のバンド。ゲストは、チー坊ちゃんとエディ蕃に清水宏次郎だった。このパーティーをプロデュースしてくれたのが、社友の古谷喜久男氏。

 

 話が大分横道にそれてしまったが、友人の作家、山平重樹氏の書いた「横浜愚連隊物語・モロッコの辰」を読んで感動して作った曲が、「荒ぶる天使たち」。随分前に、サリーの店で飲んでいたら彼が一人で飲みに来た。山平氏の話をすると、「是非共話がしたい」と言うので、その場で山平氏に電話して、柳ジョージを紹介した。これが縁となって、山平氏は彼のコンサートに招待されたという。このとき、サリーの店に一緒にいたのが、やはり亡くなってしまった瀬野壽夫君で、その時の写真がアルバムにあるはずだ。

 

 先日は、ジョー山中が死んで、サリーとサリーパパとの仲良しのヨコハマの男がまた一人亡くなってしまった。


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