七月九日(火)晴れ。
群青忌でもお世話になった埼玉大学の名誉教授の長谷川三千子先生より新刊書をご恵送頂いた。「神やぶれたまはず」(中央公論新書・1800+税)「昭和二十年八月十五日、終戦の玉音放送を聞いた人々の胸に、ある共通の心情が湧き起った。歴史の彼方に忘れ去られたその一瞬をさぐる精神史の試み。として折口信夫、橋川文三、桶谷秀昭、太宰治、伊東静雄、磯田光一、吉本隆明、三島由紀夫、「イザク奉献」(旧約聖書)、昭和天皇御製の十章からなっている。まだ読み始めたばかりだが、「序」文からもう素晴らしい。少々長いが抜粋してみる。
「法華経のなかに、衣裏宝珠といふ話がある。ある貧人が、富裕な親友と久しぶりに出会つて、酒を飲んでしたたかに酔つて寝てしまつた。急用で去らねばならなくなった親友は、貧しい友の衣の裏に宝珠を縫ひつけて立ち去つた。ところが貧人はそのことに気付かず、ずつと後に再会するまで、ぼろぼろの衣の裏に宝珠を抱へもつたま、さまよひつづげたといふ。
いまのわれわれは、この衣裏宝珠の貧人にとてもよく似通つてゐる。われわれは戦ひに敗れ、われわれをうち負かした敵の庇護のもとで、乞食よりもまだ卑しい生を重ねてきた。しかし、その腐臭をはなつ汚れた衣の裏には、確かに一つの宝珠がかくされてゐるのである。
その宝珠に気付くのは、或る意味でたいへん怖ろしいことである。それは、自分たちがとうの昔に無縁になつてしまうたと思ひ込んでぬる“精神”の領域に踏み込むことを意味するからである。いまも昔も“精神“の領域のことがらは、人を戦慄させずにはおかない。
しかし、宝珠を持たされた者には、そのことに気付く義務がある。わたしがここに試みるのは、ぼろぼろの衣の裏に縫ひつけられた宝珠をそつと取り出し、それと認める、といふことである。よくよく目をこらして見れば、ぼろぼろの衣のすき間から、ところどころで、宝珠の輝きはもれ出てゐる。そのかすかな閃きを手がかりに、いまこれから、われわれの歴史がひそかに抱きもつ宝珠を発掘してゆきたいと思ふ。 」
是非ご一読をお願い致します。夜は、恒例の「蜷川政経懇」を関内の「HIRO」にて開催。二時間ほど飲んでから、ヒデちゃんと二軒転戦。ごっつぁんでした。