白雲去来

蜷川正大の日々是口実

会津戦争のもう一つの悲劇。

2013-07-21 19:15:16 | インポート

七月十九日(金)晴れ。

 午後から事務所にて、原稿の校正。窓を開け放していると吹く風が心地よい。クーラーを使わないのは節電、節金である。六時に愚妻をピックアップして帰宅。
上の子供の友達が来ていたので、一緒に夕食。子供たちはハンバーグとライス。私は、カツオ、愚妻はポークソテー。「あまちゃん」を肴に独酌。

 次週の「八重の桜」は、「鶴ヶ城開城」とのこと。ついに会津戦争のクライマックスか。大好きなブログ「爆ちゃん吼える」に会津戦争の結末が書かれていた。転載させて頂く。

 「戊辰戦争で『朝敵』『逆賊』に仕立てられた会津藩は、不毛の領地『斗南藩』に移されることで終結する。開拓は艱難辛苦を極めたが、その開拓がその後の津軽、青森の発展に寄与したことは言うまでもない。会津藩に限らず戊辰戦争で幕府に恩義を感じ、抗戦し、敗れた多くの東日本の雄藩は、新政府に参政することなく辛苦の日々を送っていた。 『賊軍』の汚名を着せられた多くの人々は、新政府に対して言いたいことは山ほどあっただろう。だが彼らは臥薪嘗胆、耐えることで國全体が保たれるのならばと己の悲運を甘受し、その抗し難い天命を潔しとした 」。

その会津藩と一緒に戦ったのが、郡上藩の凌霜隊である。大政奉還、王政復古とともに戊辰の年を迎え、勤王か佐幕か世上騒然となる。美濃郡上藩は新政府への恭順を願う一方、徳川家の恩顧にむくい藩の存続を賭けてひそかに藩士を会津鶴ヶ城へ送りこむ。それが郡上藩の凌霜隊である。凄惨をきわめた篭城戦の末に、〈降参〉の白旗をかかげて鶴ヶ城は落ちた。傷つき敗れ、俘囚の身となって郡上八幡へ送還された凌霜隊員は、朝敵の汚名を冠せられ屈辱の人生を強いられる。

凌霜隊の苛酷な運命の爪跡を克明に追ったのが澤田ふじ子さんの「葉菊の露」である。正に涙なくしては読めない。私の愛読書の一つである。興味のある方は是非ご一読下さい。

51vana4mnkl_bo2204203200_pisitbstic※中公文庫。上下巻です。

歴史と言うのはミラーボールのようで照射する場所によって光にもなり影にもなる。と仰ったのは野村先生だった。会津藩や新選組の人たちは靖国神社に祀られていない。何とかしなければ。


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