五月八日(金)晴れ。
何気なしにテレビを見ていたら、何と元マラソンランナーの浅利純子が出ていた。最初は、どこの生活やつれしたおばさん(失礼)が出ているのかと思って見ていたら浅利純子だった。三人の男の子の母となって、子育てに奮闘している。何でも、飽きっぽい性格の小学生学生の長男に、自信を持たせるために、母が現役のマラソンランナーであった頃に世界陸上で優勝した際に貰った金メダルを見せたい。しかし歳月の流れでその金メダルが変色してしまった。何とか元の輝きに戻して、子供たちに母が頑張っていたことを伝えたい。というような内容だったと思う。その変色した金メダルを、職人の手によってきれいにして浅利に渡すと言うもので、思わず見入ってしまった。彼女の現役時代の栄光の足跡は、ウイキで見ると。
浅利は、ダイハツに所属していた時代に、1993年1月31日 大阪国際女子マラソン初優勝。2時間26分26秒(2位の安部友恵とは1秒差)。当時日本女子最高タイ記録。レースの終盤、長居陸上競技場の手前まで安部と二人で激しいデッドヒートを繰り広げたが、安部が競技場へ入る直前、先導車につられてコースを大回りするミスにより、浅利がタナボタで先頭に立つ。残り100mで安部が追い付くも、その後浅利がスパートしてゴールとなった。
1993年8月15日、世界陸上シュトゥットガルト大会女子マラソン優勝。2時間30分03秒(3位は安部友恵で銅メダル獲得、松野明美は11位)。当時日本女子陸上選手としての金メダル獲得は、オリンピックも含めて初の快挙である。レース後半の33Km付近で一度は先頭に立ったポルトガルのマヌエラ・マシャド(2位)を、浅利が36kmの下り坂で逆転、その後は独走してのフィニッシュとなった。
1994年1月30日、大阪国際女子マラソン3位。2時間26分10秒(優勝は1秒差で当時日本女子最高記録達成の安部友恵、2位は安部と同タイムの藤村信子)。長居第2陸上競技場へは浅利・安部・藤村の三人がほぼ同時に入ったが、ゴールライン100m手前のホームストレートで安部がスパートをかけると浅利はついていけず、そして藤村にもわずかに追い越されてしまった。
1995年11月19日、東京国際女子マラソン優勝。と輝かしい記録を残した名ランナーである。その後、2001年1月、現役引退を表明。昨年の大阪国際が浅利の競技生活最後のレースとなった。その後ダイハツ陸上部のコーチへ就任となる。005年10月、鈴木監督が60歳の定年退職を機に、浅利自身もダイハツを退社となる。2006年3月 - チームミズノアスレティックに加入。同年3月に結婚。2007年3月、37歳の高齢出産だったが無事長男を儲ける。同年8月25日、大阪世界陸上開会式に、谷口浩美・鈴木博美と共に世界陸上の歴代優勝者としてゲスト出演した。2007年11月、故郷の秋田県鹿角市で「浅利純子杯争奪 第1回鹿角駅伝」が開催、浅利もゲストランナーで参加。
陸上ファンの私としては、上記のマラソンのビデオはほとんど持っている。今度ゆっくり浅利純子の軌跡を見てみるつもり。浅利とライバルだつた旭化成の安部友恵はどうしているのだろうか。
何気なしにテレビを見ていたら、何と元マラソンランナーの浅利純子が出ていた。最初は、どこの生活やつれしたおばさん(失礼)が出ているのかと思って見ていたら浅利純子だった。三人の男の子の母となって、子育てに奮闘している。何でも、飽きっぽい性格の小学生学生の長男に、自信を持たせるために、母が現役のマラソンランナーであった頃に世界陸上で優勝した際に貰った金メダルを見せたい。しかし歳月の流れでその金メダルが変色してしまった。何とか元の輝きに戻して、子供たちに母が頑張っていたことを伝えたい。というような内容だったと思う。その変色した金メダルを、職人の手によってきれいにして浅利に渡すと言うもので、思わず見入ってしまった。彼女の現役時代の栄光の足跡は、ウイキで見ると。
浅利は、ダイハツに所属していた時代に、1993年1月31日 大阪国際女子マラソン初優勝。2時間26分26秒(2位の安部友恵とは1秒差)。当時日本女子最高タイ記録。レースの終盤、長居陸上競技場の手前まで安部と二人で激しいデッドヒートを繰り広げたが、安部が競技場へ入る直前、先導車につられてコースを大回りするミスにより、浅利がタナボタで先頭に立つ。残り100mで安部が追い付くも、その後浅利がスパートしてゴールとなった。
1993年8月15日、世界陸上シュトゥットガルト大会女子マラソン優勝。2時間30分03秒(3位は安部友恵で銅メダル獲得、松野明美は11位)。当時日本女子陸上選手としての金メダル獲得は、オリンピックも含めて初の快挙である。レース後半の33Km付近で一度は先頭に立ったポルトガルのマヌエラ・マシャド(2位)を、浅利が36kmの下り坂で逆転、その後は独走してのフィニッシュとなった。
1994年1月30日、大阪国際女子マラソン3位。2時間26分10秒(優勝は1秒差で当時日本女子最高記録達成の安部友恵、2位は安部と同タイムの藤村信子)。長居第2陸上競技場へは浅利・安部・藤村の三人がほぼ同時に入ったが、ゴールライン100m手前のホームストレートで安部がスパートをかけると浅利はついていけず、そして藤村にもわずかに追い越されてしまった。
1995年11月19日、東京国際女子マラソン優勝。と輝かしい記録を残した名ランナーである。その後、2001年1月、現役引退を表明。昨年の大阪国際が浅利の競技生活最後のレースとなった。その後ダイハツ陸上部のコーチへ就任となる。005年10月、鈴木監督が60歳の定年退職を機に、浅利自身もダイハツを退社となる。2006年3月 - チームミズノアスレティックに加入。同年3月に結婚。2007年3月、37歳の高齢出産だったが無事長男を儲ける。同年8月25日、大阪世界陸上開会式に、谷口浩美・鈴木博美と共に世界陸上の歴代優勝者としてゲスト出演した。2007年11月、故郷の秋田県鹿角市で「浅利純子杯争奪 第1回鹿角駅伝」が開催、浅利もゲストランナーで参加。
陸上ファンの私としては、上記のマラソンのビデオはほとんど持っている。今度ゆっくり浅利純子の軌跡を見てみるつもり。浅利とライバルだつた旭化成の安部友恵はどうしているのだろうか。