白雲去来

蜷川正大の日々是口実

遥かなるスワニー河

2015-05-23 16:20:02 | 日記
五月十八日(月)晴れ後雨。

のっけから食い物の話で恐縮だが「焼きそば」に使用する麺は「中華風蒸し麺」が好きだ。これも地方によって違うのかもしれないが、普通の麺が黄色なら、中華風の蒸し麺は茶色である。どこが違うかと言えば、色は勿論食感も違う。上手く伝えられないのがもどかしい。我が家は、焼きそばと言えば、この中華風の蒸し麺で作る。残念ながらスーパーにはあまり置いてない。よって食べたくなったら横浜橋商店街にある麺の専門店で買ってくる。キャベツにもやし、天かす、赤ウインナーを入れて炒めて、味付けはウスターソースである。

子供の頃、野村先生のご尊父のお墓のある黄金町駅近くの「赤門のお寺」のすぐそばに、潘製麺所と言うお店があって、母から良く「蒸し麺」を買いに行かされた。その赤門の寺の前には「一二三(ひふみ)のパン」屋さんがあり、コッペパンにバタピーナツをぬったものを良く買った。もう何年前だろうか、野村先生のご尊父の法事があった折に、久しぶりに赤門のお寺に行った。子供の頃に、境内でトンボとりをしたり良く遊んだ場所だ。境内から、赤門の外を眺めると、一瞬景色がセピア色に変わったような気がした。法事が終わってから、懐かしくて、周辺を歩いて見たら、「一二三のパン屋」も「潘製麺所」もまだ営業をしていて嬉しかった。

何でこんなことを書いたかと言えば、録画しておいた「寅さん」を見たせいだ。シリーズの何作目かは忘れたが、落魄した名家のお嬢さん役の京マチ子の娘が小学校の先生役の壇ふみ。寅さんの妹のさくらが、壇ふみの勤めるている学校に行った時のこと。二人が話をしていると、音楽の授業をしている教室から聞こえてくるのがアメリカ民謡の「故郷の人々(スワニー河)」だった。この曲が、とてもいい感じにBGMとなって画面を引き立てていた。その歌を聞いていたら、なぜか突然、その歌を歌っていた子供の頃のことが脳裏に浮かんだのである。通っていた山の上の木造の小学校。教室から見た夕暮れの富士山。同級生の顔・・・などが洪水のように脳裏に溢れた。

「故郷の人々」を歌わなくなってから半世紀が過ぎた。そんな歌を歌っていたことすら思い出すこともなかったが、本当に久しぶりに忘れていたその歌を聞いた時、なぜか自身の来し方と相俟ってやるせない気持ちになった。映画を見終えた後で、PCで「故郷の人々」を検索してみた。

『故郷の人々(スワニー河)』は、19世紀の作曲家フォスターが1851年(25歳頃)に作曲したアメリカ歌曲。曲のタイトルにもある地名「Swanee River(スワニー河)」は、ジョージア州南部とフロリダ州北部を流れる河。歌の内容は、アメリカ南部での綿花畑(プランテーション)から逃れ、北部の自由州で生き延びる黒人達が、昔の子供の頃を懐かしく哀しく思い出す切ない曲となっている。「故郷」が指す場所については、アメリカで生まれた黒人達にとってはアメリカの綿花畑が「故郷」になり、アフリカ大陸から連れて来られたばかりの黒人達にとっては、生まれ育ったアフリカ大陸の地元の村が「故郷」ということになるだろうか。

1949年には、勝承夫訳詞のもと「故郷の人々」として発表されている。「故郷の人々」は小学校の音楽教科書に掲載されていた。(以上、ウイキより転載。)

故郷の人々.(遥かなるスワニー河)
(一)
遥かなるスワニー川 その下(しも)なつかしの彼方よ わがふるさと旅空のあこがれ 果てなく思い出(い)ずふるさと 父母(ちちはは)います 長き年月(としつき)旅にあれば おお疲れしわが胸 父母(ふぼ)を慕うよ。

良い歌だなあー。シラフで良かった。
コメント (1)
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政治家の品位とは。

2015-05-23 15:53:39 | 日記
五月十七日(日)晴れ。

夜のニュースは、大阪都構想に対する住民投票において反対が上回り、橋下市長側の賛成派が敗れたことに関しての論評でもちきりだった。大阪都構想というものにほとんど知識がない。しかし、良し悪しは別としてそのことのために政治家になり、政党を作り努力して来た橋下氏が、敗北した結果、政治の世界から身を引くと言う。ある意味で潔いと思う。それだけ失望感や喪失感が大きかったのに違いあるまい。個人的には、橋下氏にシンパシーと言うものを感じていない。ただ風雲児であると思うのみだ。その橋下氏の引退に関して、自民党の二階総務会長が、講演か何かで「止めるならさっさとやめたらよい」と言うようなことを言っていたが、彼の品性をあらわしているように思えてならなかった。正直言って「嫌な野郎だ」と直感的に感じたのだ。橋下氏を好きか嫌いかは別として、嘘でも良いから敗軍の将に対する思いやりを言うことが、上に立つもののせめての心がけではないだろうか。二階氏のその一言で、彼が歩んできて道や育ちが知れようと言うのは、大げさだろうか。

「首相や政治家のもつ品位というものが、海外ではしばしば国家そのものの品位として受け止められる」と書いたのは、先年文化勲章を受賞した作家の阿川弘之氏で、氏の著書『葭の髄から』(文藝春秋)という本の中に、戦争末期に首相となり、ポツダム宣言を受諾した鈴木貫太郎海軍大将のエピソードが紹介されている。
 
昭和二十年の四月、小磯陸軍大将の内閣が総辞職をしたあと、大命を拝したのは、海軍の軍人として日露戦争の折、駆逐艦の艦長として活躍し、その後、連合艦隊司令長官、軍令部部長、侍従長を歴任した、鈴木貫太郎提督であった。この鈴木貫太郎大将は、昭和十一年には天皇のお側に使える侍従長の立場にあったが、その年に起きた二・二六事件の際に、「君側の奸」として、決起将校の指導者的存在である安藤輝三大尉の部隊に襲撃をされ、瀕死の重傷を負った。

余談ではあるが、この鈴木内閣が成立した昭和二十年の四月七日は、戦艦大和が巡洋艦矢矧を先頭に八隻の駆逐艦と共に沖縄に向けて海上特攻に出撃し、九州南方沖で撃沈された日でもある。この大和の撃沈から六日後、米大統領のフランクリン・ルーズベルトが急逝した。その報に接した、鈴木貫太郎総理は短いメッセージを発表した。ルーズベルトの政治的功績を認め「深い哀悼の意をアメリカ国民に送る」と述べただけの簡単なものだったが、同盟通信を通じてこれが海外に流されると、欧米各地で予想外の反響が起こった。スイスの新聞『バーゼル』の主筆が「敵国の首相(元首)の死に哀悼の意を捧げた日本の首相の心ばえはまことに立派である。これこそ日本武士道精神の発露だろう。ヒトラーが、この偉大な指導者の死に際してすら「悪魔の死」と誹謗の言葉を浴びせて恥じなかったのとは、何という大きな相違であろうか。日本の首相の礼儀正しさに深い敬意を表したい」と書いた。

更に、米国に亡命中のトーマス・マンがドイツ国内向けラジオ放送の中で、同じ趣旨のことを、驚きの念を以て語った。「日本はアメリカと生死をかけた戦争をしているのです。これは呆れるばかりのことではありませんか。」と言い、「あの東方の国には騎士道精神と人間の品位にたいする感覚が死と、偉大性にたいする畏敬がまだ存在するのです。これがドイツと違うところです。ドイツでは十二年前に、一番下のもの、人間的に最も劣った最低のものが上部にやってきて、国の面相を決定したのです」こう語った。
 

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