二月十三日(土)晴れ。
午後一時、サリー姐さんと本牧のファミレスで待ち合わせてお茶。私たちが着く少し前に、盟友の古谷喜久男夫妻がいたとのこと。サリーたちが毎年行っているハワイでのお祭りに同行する方の「エスタ」の手続きを愚妻が頼まれたことの打ち合わせ。終了後はマイカル本牧のスーパーにて買い物。
このマイカル本牧が出来た頃は、ホテルや映画館にブランドショップや大型レストランなどがあって、随分と賑わったが、いつのまにか、段々お店が撤退してしまい、寂れた感じになり、「オシャレ」な場所には程遠くなった。昔から本牧は交通が不便で、陸の孤島とも言われている。電車や地下鉄も通ってなく、まあそれが良いと言う人もいるが、車が無ければ中々買い物に行こうと言う気になれない。
本牧が輝いていたのは一九六〇年代までだ。
・・・本牧から「PX」や「シーサイド・クラブ」が消え、赤と青とで輝いていた横文字のネオンが撤退して行ったのはいつのことだろうか。ウインストンやペルメル、キャメルの煙が漂う中にバーボンのラベルが見えかくれしていた喧騒の夜はもうない。キャデイやサンダーバードのコンパーティブルを見ると市電に乗っている自分がとてもみじめに感じたが、この街と、吹く潮風が好きだった・・・。
随分前に、私の「あの頃ヨコハマ」という文章の中に、昔の本牧のことをこう書いた。
この本牧の少し先の三溪園の近くで、私が尊敬するロック・ボーカリストのチー坊さんが「ブギー・カフェ」を経営しているが、ホットドックでは酒が飲めないので、ちょっと残念である。その昔、馬車道のラタンビルの中にあった中川三郎のディスコティクで、チー坊さんがボーカルのベベズが、ジミヘンのFoxey Ladyを演奏した時の衝撃は忘れられない。もう四〇年以上も前のことだ。
午後一時、サリー姐さんと本牧のファミレスで待ち合わせてお茶。私たちが着く少し前に、盟友の古谷喜久男夫妻がいたとのこと。サリーたちが毎年行っているハワイでのお祭りに同行する方の「エスタ」の手続きを愚妻が頼まれたことの打ち合わせ。終了後はマイカル本牧のスーパーにて買い物。
このマイカル本牧が出来た頃は、ホテルや映画館にブランドショップや大型レストランなどがあって、随分と賑わったが、いつのまにか、段々お店が撤退してしまい、寂れた感じになり、「オシャレ」な場所には程遠くなった。昔から本牧は交通が不便で、陸の孤島とも言われている。電車や地下鉄も通ってなく、まあそれが良いと言う人もいるが、車が無ければ中々買い物に行こうと言う気になれない。
本牧が輝いていたのは一九六〇年代までだ。
・・・本牧から「PX」や「シーサイド・クラブ」が消え、赤と青とで輝いていた横文字のネオンが撤退して行ったのはいつのことだろうか。ウインストンやペルメル、キャメルの煙が漂う中にバーボンのラベルが見えかくれしていた喧騒の夜はもうない。キャデイやサンダーバードのコンパーティブルを見ると市電に乗っている自分がとてもみじめに感じたが、この街と、吹く潮風が好きだった・・・。
随分前に、私の「あの頃ヨコハマ」という文章の中に、昔の本牧のことをこう書いた。
この本牧の少し先の三溪園の近くで、私が尊敬するロック・ボーカリストのチー坊さんが「ブギー・カフェ」を経営しているが、ホットドックでは酒が飲めないので、ちょっと残念である。その昔、馬車道のラタンビルの中にあった中川三郎のディスコティクで、チー坊さんがボーカルのベベズが、ジミヘンのFoxey Ladyを演奏した時の衝撃は忘れられない。もう四〇年以上も前のことだ。