二月十五日(月)曇り。
午後五時から川崎のレンタルスペースにて「群青の会」(代表・大熊雄次)主催の野村先生の生誕祭があり出席。確か昨年は、夕方から雪になって、スタッドレスを履いている松本佳展君の車で送って貰ったが、自宅のすぐ近くに来て坂が上れず、そこから歩いて帰ったのを覚えている。今日も一瞬だが雪が舞った。野村先生には雪が良く似合う。
残刑は十年もある「明日も雪か」。この句は野村先生以外には詠むことができないだろう。いや野村先生だからこその句である。その昔、この句について先生から聞いたことがある。
「千葉に降りた時、刑務所の面接があって俺を含めて三人が面接を同時に受けた。その際に面接官が書類を見ながら『一人短いのがいるな』と呟いた。誰かと思ったら、『野村お前だよ』。後の二人は、無期の人だった。ここが長期刑務所であると言うことを思い知った最初の出来事だった。そんな中で無我夢中で二年が過ぎた。やっと二年が過ぎたかぁー。と思った瞬間、これから先、まだ十年も務めなければならないのかと思った時、ゾッとして、体が震えたことがあった。雪の日だった」。
この雪の打擲 耐へて耐へてゆく この句もその頃の作である。若き日の先生の苦悩が伝わってくる。
先生の生誕祭は、当初は先生の句碑のある群馬の雷電神社にて斎行されていた。その後、大宮、川崎へと場所を移して行われている。その理由は、生誕祭を司る神職の勤務先の都合によるもの。
五時半より、厳かに生誕祭が行われた。(祝詞や誓詞は私の機関誌『燃えよ祖国』の第二百号に掲載します)来賓の犬塚博英民族革新会議議長が、「死者は歳を取らないのだろうか。野村さんは五十八歳で亡くなられたが、私は、野村さんの晩年の歳をすでに超え、老人となったが、野村さんは、五十八歳のまま、私の記憶の中にある」。奥様は、「歳を取った私が、向こうに行った時、私のことを分かるでしょうか」。これにはホロリとさせられた。
三島・森田両烈士のご命日は「憂国忌」として一部のカレンダーに掲載されている。野村先生の「群青忌」も、いつの日か歳時記に定着させ、その日が国家や政治を考える日になるように、微力ながら努力するつもりである。野村先生が、河野邸の焼き討ち事件にて十二年の刑を終えて、戦線に復帰する際に詠んだのが、
先駆けて 散りにし人の 悲しみを 我がものとせむ この道を行く。
午後五時から川崎のレンタルスペースにて「群青の会」(代表・大熊雄次)主催の野村先生の生誕祭があり出席。確か昨年は、夕方から雪になって、スタッドレスを履いている松本佳展君の車で送って貰ったが、自宅のすぐ近くに来て坂が上れず、そこから歩いて帰ったのを覚えている。今日も一瞬だが雪が舞った。野村先生には雪が良く似合う。
残刑は十年もある「明日も雪か」。この句は野村先生以外には詠むことができないだろう。いや野村先生だからこその句である。その昔、この句について先生から聞いたことがある。
「千葉に降りた時、刑務所の面接があって俺を含めて三人が面接を同時に受けた。その際に面接官が書類を見ながら『一人短いのがいるな』と呟いた。誰かと思ったら、『野村お前だよ』。後の二人は、無期の人だった。ここが長期刑務所であると言うことを思い知った最初の出来事だった。そんな中で無我夢中で二年が過ぎた。やっと二年が過ぎたかぁー。と思った瞬間、これから先、まだ十年も務めなければならないのかと思った時、ゾッとして、体が震えたことがあった。雪の日だった」。
この雪の打擲 耐へて耐へてゆく この句もその頃の作である。若き日の先生の苦悩が伝わってくる。
先生の生誕祭は、当初は先生の句碑のある群馬の雷電神社にて斎行されていた。その後、大宮、川崎へと場所を移して行われている。その理由は、生誕祭を司る神職の勤務先の都合によるもの。
五時半より、厳かに生誕祭が行われた。(祝詞や誓詞は私の機関誌『燃えよ祖国』の第二百号に掲載します)来賓の犬塚博英民族革新会議議長が、「死者は歳を取らないのだろうか。野村さんは五十八歳で亡くなられたが、私は、野村さんの晩年の歳をすでに超え、老人となったが、野村さんは、五十八歳のまま、私の記憶の中にある」。奥様は、「歳を取った私が、向こうに行った時、私のことを分かるでしょうか」。これにはホロリとさせられた。
三島・森田両烈士のご命日は「憂国忌」として一部のカレンダーに掲載されている。野村先生の「群青忌」も、いつの日か歳時記に定着させ、その日が国家や政治を考える日になるように、微力ながら努力するつもりである。野村先生が、河野邸の焼き討ち事件にて十二年の刑を終えて、戦線に復帰する際に詠んだのが、
先駆けて 散りにし人の 悲しみを 我がものとせむ この道を行く。