二月四日(木)曇り。
朝食は、冷食の「ナポリタン」。がっかりだった。やはり玉ねぎと赤ウインナーを炒めてから、スパゲティーを入れてケチャップで味付けをする。この昔ながらの物が一番である。
加東 大介(1911年2月18日 - 1975年7月31日)と言う役者をご存じだろうか。ウイキによれば、代表作は『七人の侍』、『大番』、『南の島に雪が降る』。兄は沢村国太郎、姉は沢村貞子という芸能一家に生まれる。1933年に前進座に入り、市川莚司を名乗る。まるまるとした肢体に似ぬ精悍さで、山崎進蔵(河野秋武)、市川扇升とともに前進座の若手三羽烏として活躍する。同年には大日本自由映画プロの『段七しぐれ』で映画デビュー、その後は山中貞雄監督の『河内山宗俊』(1936年)や『人情紙風船』(1937年)などに出演し、中堅俳優の一人として広く知られるようになる。兵役を1933年に伍長勤務上等兵(後の兵長)で除隊し終えていたが、1943年に陸軍衛生伍長として応召。ニューギニア戦線で、兵士たちを鼓舞するための劇団づくりを命じられ、長谷川伸の戯曲『瞼の母』などを演じる。舞台に降る「雪」に故国を見た兵士たちの姿を描いた記録は、小説『南の島に雪が降る』に結実する。なお、その時劇団で一緒だった九州出身の僧侶が、漫画家小林よしのりの母方祖父である。戦後もたびたび彼の寺を訪れていたという。
彼の代表作の一つである「南の島に雪が降る」は私の好きな映画の一つである。直接戦争を扱ったものではないので、派手な戦闘シーンなどないが、戦争の側面を伝えるものとしては、渥美清が主演した「拝啓天皇陛下様」と共に感動する映画である。映画「南の島に雪が降る」のあらすじは、昭和18年(1943年)10月に召集を受けニューギニアに向かった。しかしそこは主力部隊から脱落し見放され、救援物資も届かない最果ての地。戦友たちは飢えとマラリアでバタバタと死んでゆく。いつ戦争が終わるかもわからない。希望が全くない。そんな過酷な状況で加東大介は、上官からの命もあり、なんと演芸分隊を立ち上げ、熱帯のジャングルの真ん中に日本の舞台を作り、三味線弾き、ムーラン・ルージュの脚本家、スペイン舞踊の教師、舞台美術・衣装担当の友禅職人など、実に個性的なメンバーと共に、彼らは公演を始める。ありあわせの布に絵を描いて衣装を作り、ロープをカツラにし、亜鉛華軟膏を塗りたくり白粉にする。いまその舞台を見たら、なんと粗末な舞台だと思うだろう。しかしいつ帰れるかもわからない日本兵にとって、それは夢だった。希望そのものだった。女形の内股の白さに女房を思い、小道具の長火鉢に日本を思う。その舞台を見るまでは死ねない。時には重病人を回復させるまでもの希望が、その舞台にはあった。
その映画の原作は、加東 大介の同名の手記(ちくま文庫)から発売されている。昭和36年に公開された映画もレンタルビデオショップなどにあるので是非ご覧いただきたい。その映画のリメイク版が平成7年に「桜チャンネル」の水島総氏によって作られた。
朝食は、冷食の「ナポリタン」。がっかりだった。やはり玉ねぎと赤ウインナーを炒めてから、スパゲティーを入れてケチャップで味付けをする。この昔ながらの物が一番である。
加東 大介(1911年2月18日 - 1975年7月31日)と言う役者をご存じだろうか。ウイキによれば、代表作は『七人の侍』、『大番』、『南の島に雪が降る』。兄は沢村国太郎、姉は沢村貞子という芸能一家に生まれる。1933年に前進座に入り、市川莚司を名乗る。まるまるとした肢体に似ぬ精悍さで、山崎進蔵(河野秋武)、市川扇升とともに前進座の若手三羽烏として活躍する。同年には大日本自由映画プロの『段七しぐれ』で映画デビュー、その後は山中貞雄監督の『河内山宗俊』(1936年)や『人情紙風船』(1937年)などに出演し、中堅俳優の一人として広く知られるようになる。兵役を1933年に伍長勤務上等兵(後の兵長)で除隊し終えていたが、1943年に陸軍衛生伍長として応召。ニューギニア戦線で、兵士たちを鼓舞するための劇団づくりを命じられ、長谷川伸の戯曲『瞼の母』などを演じる。舞台に降る「雪」に故国を見た兵士たちの姿を描いた記録は、小説『南の島に雪が降る』に結実する。なお、その時劇団で一緒だった九州出身の僧侶が、漫画家小林よしのりの母方祖父である。戦後もたびたび彼の寺を訪れていたという。
彼の代表作の一つである「南の島に雪が降る」は私の好きな映画の一つである。直接戦争を扱ったものではないので、派手な戦闘シーンなどないが、戦争の側面を伝えるものとしては、渥美清が主演した「拝啓天皇陛下様」と共に感動する映画である。映画「南の島に雪が降る」のあらすじは、昭和18年(1943年)10月に召集を受けニューギニアに向かった。しかしそこは主力部隊から脱落し見放され、救援物資も届かない最果ての地。戦友たちは飢えとマラリアでバタバタと死んでゆく。いつ戦争が終わるかもわからない。希望が全くない。そんな過酷な状況で加東大介は、上官からの命もあり、なんと演芸分隊を立ち上げ、熱帯のジャングルの真ん中に日本の舞台を作り、三味線弾き、ムーラン・ルージュの脚本家、スペイン舞踊の教師、舞台美術・衣装担当の友禅職人など、実に個性的なメンバーと共に、彼らは公演を始める。ありあわせの布に絵を描いて衣装を作り、ロープをカツラにし、亜鉛華軟膏を塗りたくり白粉にする。いまその舞台を見たら、なんと粗末な舞台だと思うだろう。しかしいつ帰れるかもわからない日本兵にとって、それは夢だった。希望そのものだった。女形の内股の白さに女房を思い、小道具の長火鉢に日本を思う。その舞台を見るまでは死ねない。時には重病人を回復させるまでもの希望が、その舞台にはあった。
その映画の原作は、加東 大介の同名の手記(ちくま文庫)から発売されている。昭和36年に公開された映画もレンタルビデオショップなどにあるので是非ご覧いただきたい。その映画のリメイク版が平成7年に「桜チャンネル」の水島総氏によって作られた。