白雲去来

蜷川正大の日々是口実

亡き友の十三回忌。

2018-03-06 10:09:25 | 日記
三月四日(日)晴れ。

初夏を思わすような良い天気だが、花粉がブンブン飛んでいるらしく、辛くてたまらない。花粉症の人が日本にどれだけいるのか分からないが、毎年、この時期に花粉症の人がいるにも関わらず、その原因が分かっているのに、政府の無策には呆れてしまう。何とかならないものか。

今日は、古い同志であった板垣哲雄君の十三回忌の法要を、彼の菩提寺である新横浜駅近くの古刹、三会寺(さんねじ)にて行った。板垣君を知る人のみに法事の案内状を送ったが、懐かしい人たちが集まってくれて嬉しかった。どんな事情や理由があったとしても、先に逝った同志の菩提を弔うのは、生きている者の務めであると思っている。十三回忌ともなると、板垣君を知っている者も、ましてや戦線を共有した人も少なくなった。正に星霜は移り、人は去り、また老いてここに集う。

三会寺には、支那事変や大東亜戦争で亡くなられた人のお墓が多い。中には、ご兄弟での亡くなられた墓碑もある。板垣君もそういった英霊に囲まれて眠っている。本堂での法事の後に墓前で線香を手向けた。

終了後に、藤棚の中華料理店にて直会。車のため飲めない人もいたが、社友で青森は黒石市の濱田公一さんからご恵送頂いた「三升」入りの「甕焼酎」を皆に振舞った。盟友の山崎、水原の両氏と野毛の「すずらん」に転戦して帰宅。

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萩がこぼれる、桜がまた散る。

2018-03-06 09:32:32 | 日記
三月三日(土)晴れ。経団連事件の日。

野村先生が同志らと「財界の営利至上主義を撃つ」として財界の総本山である経団連会館を襲撃・占拠したのが四十一年前の今日のことだった。当時、私は二十六歳。何気なくテレビを見ていたら臨時ニュースで「右翼が経団連を襲撃」というテロップが流れた。すぐに野村先生たちの行動とピンと来た。居ても立ってもいられなかったが、何をして良いか分からなかった。何で、俺が家にいるのかと、いたたまれなかった。何年たっても今日の日が来ると、あの時の忸怩たる思いが甦る。その時に城山三郎の「一歩の距離」を読んだことが、その後に私の背中を押してくれた。最も十年の歳月を必要としたが。早いもので、経団連事件から四十一年が過ぎたか・・・。

「経団連事件」を扱ったものでは、事件の翌年(昭和五十三年)の四月に発売された『愛国戦線』の通巻百四十号、「特集・経団連事件」が良くまとめられている。津久井龍雄・永田美穂・須藤久・丸山照雄・相田浩といった人たちの事件への所感。更に弁護団の「冒頭陳述」弁護団の「最終弁論」、東京地裁の「判決文」が掲載されている。そして永田美穂さんのタイトルがまたいい。「萩がこぼれる、桜がまた散る」である。また、今日は、「桜田門外の変」の日でもある。水戸で行われていると言う「烈士祭」にいつか参加してみたいと思っている。

私が発行した『大悲ジャーナル』時代の「経団連事件特集」もその『愛国戦線』を参考にさせて頂いた。その他の批評やマスコミ報道も含めて「特集号」を新たに作ってみたいが、経費の関係で足踏みしている。せめて資料整理ぐらいはしなければと思っています。

夜は、知り合いの方の還暦のお祝いがあり亀戸行き。アトラクションで岡崎二郎さんや「ハニーシックス」のご子息など出演し、盛り上がった。終了後に、錦糸町で大熊、宮川の両氏と仕上げの酒。※写真は昭和五十年、「河野邸焼き討ち事件」にて戦線復帰直後の野村先生と。先生は四十歳、私は二十四歳だった。

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