三月十一日(日)晴れ。
良い天気なのだが、自宅と事務所の往復で、一日が終わった。私の機関誌『燃えよ祖国』の編集と、事務所の書棚の整理に追われた。書棚を整理していると、思いがけない「再会」に嬉しくなることがある。といっても人ではなく、書棚の奥から記憶の外にある本や、写真、パンフなどとの再会である。
昭和四十四年に「月刊ペン社」から発売された、林房雄の『日本と対決』という本が出てきた。薄いパラフィン紙のカバーがあるので、恐らく古書店で買ったものに違いない。頁をめくって拾い読みしていると、買った頃のことが甦る。嬉しかったのは、その本の中に林房雄の追悼集会のパンフや式次第が挟まっていたことだ。追悼集会は、昭和五十一年の一月二十四日、九段会館で行われた。参加をした際に頂いたものと思う。司会は、日本学生同盟の初代委員長の斉藤英俊氏だ。
林房雄と言えば、私にとっては『大東亜戦争肯定論』、『緑の日本列島』、『青年』がすぐに浮かぶ。特に、左翼運動の全盛期だった、いわゆる七十年代に、何処の書店に行っても、進歩的文化人とか言う左翼の学者の本が書棚を占領していた。(まるで現在の保守ブームのようだ)その時に、林房雄の『大東亜戦争肯定論』を見つけた時の感動は忘れられない。大勢の敵の中にあって、たった一人で戦っているような感じがしたからだ。その本の題名を見ただけで、嬉しかった。勇気を貰った。
懐かしい機関誌も沢山出てきた。阿部勉さんが編集していた『土とま心』の橘孝三郎追悼号(『土とま心』は、その後、『大吼』の初代編集長だった松浦和夫さんに引き継がれる)や三上卓先生の門下生、大昭会発行の『大夢』(大夢・大悲は三上先生の雅号)、『愛国戦線』の経団連事件特集号に「萩がこぼれる、桜がまた散る」を書いた永田美穂さんが主宰していた文芸誌『花曜日』の創刊号に野村先生が寄せた「幻の娘」。この一文は、かつて野村先生が千葉刑務所に在獄中に、全国の刑務所で発行している「人」新聞の、随筆の部で一位になったものである。結局、片づけるよりも、かえって散らかってしまった。もう少し暖かくなったならば、きちんと整理しようと思っている。
夜は、酔狂亭にて月下独酌。肴は、カツオのタタキ、豚しゃぶ、子供の土産の「守口漬け」。お供は、「黒霧島」。
良い天気なのだが、自宅と事務所の往復で、一日が終わった。私の機関誌『燃えよ祖国』の編集と、事務所の書棚の整理に追われた。書棚を整理していると、思いがけない「再会」に嬉しくなることがある。といっても人ではなく、書棚の奥から記憶の外にある本や、写真、パンフなどとの再会である。
昭和四十四年に「月刊ペン社」から発売された、林房雄の『日本と対決』という本が出てきた。薄いパラフィン紙のカバーがあるので、恐らく古書店で買ったものに違いない。頁をめくって拾い読みしていると、買った頃のことが甦る。嬉しかったのは、その本の中に林房雄の追悼集会のパンフや式次第が挟まっていたことだ。追悼集会は、昭和五十一年の一月二十四日、九段会館で行われた。参加をした際に頂いたものと思う。司会は、日本学生同盟の初代委員長の斉藤英俊氏だ。
林房雄と言えば、私にとっては『大東亜戦争肯定論』、『緑の日本列島』、『青年』がすぐに浮かぶ。特に、左翼運動の全盛期だった、いわゆる七十年代に、何処の書店に行っても、進歩的文化人とか言う左翼の学者の本が書棚を占領していた。(まるで現在の保守ブームのようだ)その時に、林房雄の『大東亜戦争肯定論』を見つけた時の感動は忘れられない。大勢の敵の中にあって、たった一人で戦っているような感じがしたからだ。その本の題名を見ただけで、嬉しかった。勇気を貰った。
懐かしい機関誌も沢山出てきた。阿部勉さんが編集していた『土とま心』の橘孝三郎追悼号(『土とま心』は、その後、『大吼』の初代編集長だった松浦和夫さんに引き継がれる)や三上卓先生の門下生、大昭会発行の『大夢』(大夢・大悲は三上先生の雅号)、『愛国戦線』の経団連事件特集号に「萩がこぼれる、桜がまた散る」を書いた永田美穂さんが主宰していた文芸誌『花曜日』の創刊号に野村先生が寄せた「幻の娘」。この一文は、かつて野村先生が千葉刑務所に在獄中に、全国の刑務所で発行している「人」新聞の、随筆の部で一位になったものである。結局、片づけるよりも、かえって散らかってしまった。もう少し暖かくなったならば、きちんと整理しようと思っている。
夜は、酔狂亭にて月下独酌。肴は、カツオのタタキ、豚しゃぶ、子供の土産の「守口漬け」。お供は、「黒霧島」。