十一月六日(火)雨。
六日なのに、九日の青年思想研究会が毎年行っている「先憂を偲ぶ会」に出席したことを書いてみたい。
上野の中華レストランにて行われた、青年思想研究会による「先憂を偲ぶ会」に大熊雄次氏と参加した。祭壇には、左から北上清五郎、高橋正義、児玉誉士夫、中村武彦、筑紫次郎、遠井司郎といった民族派の重鎮でいらした諸先生の遺影があり、菊の花を献花し手を合わせた。ご指名により、阿形充規、犬塚博英の両先生の後に、追悼のご挨拶をさせて頂いた。
私は、児玉先生とはお目にかかったことはないが、他の五名の先生とは、様々な会合でご一緒させて頂いた。その「偲ぶ会」の途中で、大変貴重な映像が放映された。それは昭和四十四年に、青年思想研究会が実施した「武闘訓練」の模様と、同年の十月二十一日(この日を新左翼は「国際反戦デー」とし大規模かつ過激なデモや集会を行なっていた)に、青年思想研究会や友好団体六百名が池上本門寺に終結して、左翼の暴動に備えた訓練の映像である。
その映像には、祭壇に写真で並んだ諸先生の他に、岡村吾一、小林楠夫、衛藤豊久、石川進といった諸先生の若き頃の映像があった。私は、この映像で児玉先生の肉声を初めて耳にした。今では、その映像の中に出てきた「重鎮」の方々のほとんどが亡くなられているが、幾人かお付き合いのあった諸先生のお元気な頃を思い出して、胸が熱くなった。
ちなみに児玉誉士夫先生は、一九一一年(明治四十四年)の生まれであるから、この映像が撮られた昭和四十四年(一九六九年)は、五十八歳であり、今の私よりも十歳も若い。また、「偲ぶ会」に出席なされた山口申先生は、その池上本門寺の武闘訓練に参加された、数少ない存命の方の一人である。この歴史的かつ貴重な映像を是非後世に残して頂きたいと思った。青年思想研究会の緒方孝明議長より、後日にその映像のコピーを頂けることになった。昭和四十四年九月に発売された『アサヒグラフ』には、青年思想研究会が行った訓練の様子が表紙となっている。
六日なのに、九日の青年思想研究会が毎年行っている「先憂を偲ぶ会」に出席したことを書いてみたい。
上野の中華レストランにて行われた、青年思想研究会による「先憂を偲ぶ会」に大熊雄次氏と参加した。祭壇には、左から北上清五郎、高橋正義、児玉誉士夫、中村武彦、筑紫次郎、遠井司郎といった民族派の重鎮でいらした諸先生の遺影があり、菊の花を献花し手を合わせた。ご指名により、阿形充規、犬塚博英の両先生の後に、追悼のご挨拶をさせて頂いた。
私は、児玉先生とはお目にかかったことはないが、他の五名の先生とは、様々な会合でご一緒させて頂いた。その「偲ぶ会」の途中で、大変貴重な映像が放映された。それは昭和四十四年に、青年思想研究会が実施した「武闘訓練」の模様と、同年の十月二十一日(この日を新左翼は「国際反戦デー」とし大規模かつ過激なデモや集会を行なっていた)に、青年思想研究会や友好団体六百名が池上本門寺に終結して、左翼の暴動に備えた訓練の映像である。
その映像には、祭壇に写真で並んだ諸先生の他に、岡村吾一、小林楠夫、衛藤豊久、石川進といった諸先生の若き頃の映像があった。私は、この映像で児玉先生の肉声を初めて耳にした。今では、その映像の中に出てきた「重鎮」の方々のほとんどが亡くなられているが、幾人かお付き合いのあった諸先生のお元気な頃を思い出して、胸が熱くなった。
ちなみに児玉誉士夫先生は、一九一一年(明治四十四年)の生まれであるから、この映像が撮られた昭和四十四年(一九六九年)は、五十八歳であり、今の私よりも十歳も若い。また、「偲ぶ会」に出席なされた山口申先生は、その池上本門寺の武闘訓練に参加された、数少ない存命の方の一人である。この歴史的かつ貴重な映像を是非後世に残して頂きたいと思った。青年思想研究会の緒方孝明議長より、後日にその映像のコピーを頂けることになった。昭和四十四年九月に発売された『アサヒグラフ』には、青年思想研究会が行った訓練の様子が表紙となっている。