十一月十八日(日)晴れ。
今日は、今年初めての「ふぐ」に夫婦で呼ばれた。仲良しの夫妻から「群青忌のお疲れ会」と言うことで、場所は野毛の玄品ふぐ。実は、私は「ふぐ」のデビューは遅かった。何故かと言えば、どうも「ポン酢」が好きではなかったからである。寄せ鍋も、ポン酢を出されると、パスして鍋のスープに醤油と塩で味をつけて食べていた。どうも子供のころから唐辛子や芥子は幾ら辛くても大丈夫なのに「酸っぱい」のと「苦い」物が駄目だった。
それが歳と共に、酸っぱいものが大丈夫となり、ポン酢も好きになった。多分、体のことを考えて、塩っぱいものを体が拒否するようになったのかもしれない。それで「ふぐ」が好きになった。好きになったと言っても、懐具合が追い付かない。従って、好物となった「ふぐ」も年に数えるほどしか味わえない。
何年か前に、お世話になっている方に招待されて、大分の臼杵と言う所に「ふぐ」を食べに行った。そこは「肝」を食することが許可されているらしく、勧められたが、威勢の悪い私は、ご勘弁願った。「ふぐ」好きな人にはそれぞれ一家言(その人独特の主張)あって、「ふぐ」はこの店でなきゃ。とか「いやあそこ方が美味い」と、私のような「ふぐ」の素人には、おおいに参考になるが、そんな高級な店になど、中々行くことが出来ない。今日は、好きな、「ブツ」や「テッサ」、「汁」を「ヒレ酒」で堪能した。小林一茶の句に「五十にて 河豚の味を 知る夜かな」がある。まるで私のためにあるようだ。
河豚を刺身で食う風習は下関あたりではおそらくあったのだろう。それを広めたのが幕末の志士たちではあるまいか。そうでないと、伊藤博文が春帆楼に遊んだ時、あいにくしけで魚がないのでと女将が断りをいうと、馬関で魚がないとはと皮肉ったので女将がそれではお手打ちを覚悟で、と河豚を出したという逸話の本当のおもしろさが出ないのである。(「春帆楼「ふぐ豆知識」)その春帆楼に一度行ってみたいものだ。
今日は、今年初めての「ふぐ」に夫婦で呼ばれた。仲良しの夫妻から「群青忌のお疲れ会」と言うことで、場所は野毛の玄品ふぐ。実は、私は「ふぐ」のデビューは遅かった。何故かと言えば、どうも「ポン酢」が好きではなかったからである。寄せ鍋も、ポン酢を出されると、パスして鍋のスープに醤油と塩で味をつけて食べていた。どうも子供のころから唐辛子や芥子は幾ら辛くても大丈夫なのに「酸っぱい」のと「苦い」物が駄目だった。
それが歳と共に、酸っぱいものが大丈夫となり、ポン酢も好きになった。多分、体のことを考えて、塩っぱいものを体が拒否するようになったのかもしれない。それで「ふぐ」が好きになった。好きになったと言っても、懐具合が追い付かない。従って、好物となった「ふぐ」も年に数えるほどしか味わえない。
何年か前に、お世話になっている方に招待されて、大分の臼杵と言う所に「ふぐ」を食べに行った。そこは「肝」を食することが許可されているらしく、勧められたが、威勢の悪い私は、ご勘弁願った。「ふぐ」好きな人にはそれぞれ一家言(その人独特の主張)あって、「ふぐ」はこの店でなきゃ。とか「いやあそこ方が美味い」と、私のような「ふぐ」の素人には、おおいに参考になるが、そんな高級な店になど、中々行くことが出来ない。今日は、好きな、「ブツ」や「テッサ」、「汁」を「ヒレ酒」で堪能した。小林一茶の句に「五十にて 河豚の味を 知る夜かな」がある。まるで私のためにあるようだ。
河豚を刺身で食う風習は下関あたりではおそらくあったのだろう。それを広めたのが幕末の志士たちではあるまいか。そうでないと、伊藤博文が春帆楼に遊んだ時、あいにくしけで魚がないのでと女将が断りをいうと、馬関で魚がないとはと皮肉ったので女将がそれではお手打ちを覚悟で、と河豚を出したという逸話の本当のおもしろさが出ないのである。(「春帆楼「ふぐ豆知識」)その春帆楼に一度行ってみたいものだ。