7月29日(土)晴れ。
朝食は、ナスと豚肉のオイスターソース炒め、焼きのり、ナスの味噌汁。午後から「関内祭り」へ。と言っても会場なった馬車道の関内ホール前に着いたときは、すでに御神輿は片付けられており、祭り半纏姿の人たちがちらりほらりいるだけ。サリーファミリーの集まっている「サリーズバー」へ行けば、仲良しの皆さんがお店に入り切れずに、店の外や階段にまで溢れていた。4時から、近くの居酒屋に移動。六時近くまで飲んで帰宅。
過日、事務所の書棚を整理していたら雑誌の入れてある棚に、昭和47年発行の『大夢』という雑誌があった。5・15事件の指導者であった三上卓先生の門下生が、三上先生の亡くなられた翌年に立ち上げた「大昭会」という団体が発行したものである。雑誌の編集者は「新勢力社」を主宰していた毛呂清輝先生。その中に、毛呂先生の書いた「三上さんと野村秋介君」という随筆がある。その随筆が書かれた昭和47年は、野村先生が「河野一郎邸焼き打ち事件」にて、獄中に座している時である。その事件は昭和38(1963)年7月15日で、今年は、事件からちょうど60年になる。判決は12年。獄中9年目の秋であった。翌年、野村先生は、「十年を獄にあれども 寒椿」という句を詠む。毛呂先生の文章は、弊社の機関誌『燃えよ祖国』の次号(287)に掲載させて頂く。
今年は、先生が朝日新聞東京本社で壮烈な自決をなされてから30年という節目の年。10月19日(木)に5年ぶりに追悼集会「群青忌」を開催する。そして不肖私が実行委員長を務めさせて頂く。詳細は後日、掲載させて頂く。※三上卓先生の名は、通称「たく」と言われているが、正しくは「卓」と書いて「たかし」である。門下生で、岐阜の花房東洋先輩に聞いたところ、書などの揮毫は「三上卓」と書くが『大夢』の表紙のように「絵」などには、平仮名で「たかし」と揮毫したそうだ。ちなみに「大夢」と「大悲」は三上先生の雅号で、「大夢」は、花房先輩が、「大悲」は野村一門が受け継いでいる。