白雲去来

蜷川正大の日々是口実

朋、遠方より来たり。

2009-02-15 21:52:49 | インポート

二月十二日(木)晴れ。

 六時起床。朝食の後に東京へ。對馬則政、佐久間五郎の両氏と待ち合わせて、公私共にお世話になっている方へご挨拶。

 そこで頂いた「土佐一人新聞」という機関紙によれば、ホームレスは、圧倒的に男の方が多いとのこと。(そう言えばそうだ)たまに女のホームレスも見なくはないが、ほとんどが男である。なぜ女が少ないかと言えば、男より女の方が「恥」というものを敏感に感じているからと、その新聞は指摘している。

 女の人は、幾つになっても化粧をするし、着る物にも気を遣う。それは男以上だろう。また、女性は逆境にも強いという。つまり男は逆境になると、アッサリと諦めてしまうが、女性は精神的に強い。しかし、ホームレスが沢山いる背景には、もっと悲惨な女性、つまりホームレスとなって出て行ってしまった家を守っている女性がいる。と指摘していた。ナルホド。

 十時半から、新宿で朝日新聞社の記者氏から取材を受けた。勿論、「新潮」のヨタ記事の取材である。記者氏によれば、ガセであることは明白で、朝日新聞のみならず、読売や毎日の記者たちも、大笑いで、ことの成り行きを楽しみにしている、とのことだった。一時間ほどで別れたが、こちらも貴重な情報を教えて頂いた。

 横浜に戻り、一時から床屋へ。自宅に、展転社の藤本君から電話が入り、何と、彼が私を名誉毀損で告訴すると息巻いている。ナナ、何だ、普段は仲良しを装っているくせに、ひどい奴だ、と思ったら、背後には、三澤浩一君がいて、悪知恵を授けているらしい。何でも、先日、私がブログで、藤本君を「財布に一万円も入っていない」と書いたことが、名誉毀損にあたると言う。彼曰く「一万二千円は、入っています」と、抗議を受けた。藤本、三澤の大日本因業団からの攻撃には、とても太刀打ちできないので、いずれ中華街で一席持つことで、告訴を取り下げてもらうことになった。いやはや口、いやブログは災いの元である。

 五時半に、関内駅にて、佐久間五郎、山本眞一朗の両氏と待ち合わせて、中華街の「安記」へ向かった。この店は、私の好きな店で、長い間、お粥しか食べたことがなかったが、最近は酒のつまみにぴったりの小皿料理があることを知り、夜も通っている。何しろ、安くて良い。

 絶品の料理と紹興酒を堪能した後は、おきまりの「サリーズバー」へ顔を出す。知り合いばかりで盛り上がったが、特に、生まれて一度も海外に行ったことがない、という山本氏に、「最近、パスポートの取得が簡単になって、『ドンキホーテ』でも作れる」と話したことが、店で大うけだった。山本氏、まさか本当に「ドンキホーテ」に行ったわけじゃないだろうな。

 十時過ぎに解散して帰宅。早目に寝た。


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紀元節の日に、友誼団体の新年会に出席

2009-02-11 23:33:49 | インポート

二月十一日(水)晴れ。紀元節。

 起床後、顔を洗い、口をすすぎ、玄関に国旗を掲げ。神武天皇肇国の昔を偲び、橿原神宮を遥拝。

 今日は、サリー姐さん主催の食事会があったが、私は欠席。愚妻の友人夫妻が十一時に来訪して、しばらくお茶。正午に家族と友人夫妻が出かけた。

 私は、原稿に向かう。一時過ぎに、昼食に近くの中華屋「たつや」にて、中華丼セット。二時に帰宅してから、出かける仕度。今日は、私が役員の末席を汚している千葉の大日本憂国協議会の新年会がある。

 保土ヶ谷から三時十分の電車で、蘇我へ。ここで特急に乗り換えて大網。ここから東金線で東金駅へ、というコース。東金駅には、五時少し前に着いた。先日の国民協議会の新年会の会場もすごく遠い場所だったが、考えてみれば、その方々も、私と同じ思いをして上京してくるわけだから、グチをこぼしたら失礼になる。今日の東金も電車で二時間の距離だが、石井幸雄会長や同志の人たちは、運動や会合があるたびに、同じ時間をかけてくるわけだ。大変なのはお互い様。むしろ私は飛行機よりも電車の移動が好きなので、長い時間乗っていても苦にならない。読書に飽きたならば車窓を流れる景色を眺めて、様々な思いをめぐらす。そういえば随分と海外に行ったが、電車に乗ったことがない。いずれシベリア横断鉄道でも乗ってみるか。

 そんな事を考えているうちに駅に着いた。偶然に、古い同志の吉田哲雄氏と一緒になった。恐らく今日の新年会に電車で来たのは、吉田さんと私の二人だけではあるまいか。会場へは、歩いて五分ほどの距離である。久し振りに吉田さんと昔話をしながら歩いた。

 会場には、斯界の諸先生がすでに到着しており、まずはご挨拶。六時に開会。僭越ながら祝辞を述べさせて頂いた。八時に終了。帰りは、仲程通也氏と共に菊水国防連合の同志の方々の車に同乗させて頂き、自宅まで送って頂いた。感謝、合掌。

 明日、早いのだが原稿の締め切りが迫っているので、机に向かった。先日、ブログをアップしようとしたら消えてしまったことを書いたら、小針政人氏や響氏からコメントが入り、お二人も、同じように苦い経験があるそうだ。いやパソコンをやる人ならば皆、一度や二度はあるに違いない。確かに、二度目の方が文章が整理されて、良いものが書けることもあるが、歳のせいにはしたくはないが、気持ちが萎えてしまい、続かない。長いものを書いた時は、一度ワードで保存する癖をつけようと思っている。

 紀元節の歌です。是非聞いて下さい。


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また「新潮」のヨタ記事に振り回された。

2009-02-11 13:22:41 | インポート

二月十日(火)晴れ。

 良い天気である。子供たちは学校、愚妻は仕事。一人残された私は、掃除に洗濯の後に、事務所に行き注文された書籍やDVDの発送。その後は、寒い事務所で原稿を二時まで。仕事を終えた愚妻と自宅近くの「永楽」という蕎麦屋で昼食。

 午後から、「週刊新潮」のヨタ記事の早刷りが手に入ったという、知り合いの記者たちから、次々と電話が入り、昼食どころではなくなってしまった。早速、自宅に戻りFAXを確認。相変わらずヨタ記事を性懲りもなく掲載しているナァー、と呆れて読んだ。大体、野村先生のことを「ダンナ」なんて呼ぶ人を見たことも、聞いたこともない。また先生のことを「オヤジ」と呼ぶ、女性など絶対にいなかった。当時の野村事務所は、浜松町にあり、事務所の責任者は、先生の娘婿で現在は県会議員となっているT氏、それに編集長としてS氏がおり、女性事務員はOとSさんの二人がいて、資料整理にカオリではなく「ユカリ」チャンが在籍していた。秘書兼運転手は、Aという男から、Mという元タクシー運転手に、そして私の事件の後に、国会議事堂に火炎車で突入したSの三人が担当した。

 その中の何人かを除いて現在も全員と連絡が取れる。一応確認してみたが、皆、一笑に付していた。そういえば、先生のことを「オヤジ」と呼ぶ人が二人いる。一人は、前述のT氏。この人にとって、先生は義父にあたのるで、「オヤジ」と呼んでおかしくない。もう一人は、「蒲田の姐さん」。しかし蒲田の姐さんはワープロなど打てないし、そんなことがあったなら、真っ先に私に連絡してくるだろう。

 赤報隊事件の時は、私は、在獄中であり、もし先生が非合法の運動に関わるとしたら、間違いなく、現一水会の会長の木村三浩氏に依頼するに違いない。さらに先生は、とても慎重な人で、犯行声明文などを打たせるとしても、決して人前で指示をするようなことはしないと断言できる。大体、私を含めて、旧野村事務所に在籍していた人たちや門下生に聞いても、新潮に名乗り出た人を誰も知らないというのは、不自然ではないか。

 「週刊文春」の記事も読んだが、こちらの方が、よほど信憑性がある。昭和五十一年から平成四年まで一緒に生活していたという元妻の証言。今回のドタバタは、この人の一言に尽きる。

 夜は、「蜷川政経懇話会」を野毛の「弥平」にて開催。久し振りに、マーク氏も合流して、あんこうのシャブシャブに舌鼓を打った。四月に結婚式を挙げるという後輩に、酔いもあって、随分しつこく話していたらしい。ゴメンナサイね。その後、マークとサリーの店に寄ったら、何と満席で、珍しく、サリーパパのヒゲジイがカウンターを手伝っていた。社友の古谷喜久男氏を誘ったら、フラれてしまった。十二時近くに帰宅。


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折角書いたのに、消えた・・・。

2009-02-10 09:36:00 | インポート

二月九日(月)曇り。

 折角、今日の分を書いてアップしようと思ったら、全て消えてしまった。あーあ嫌になる。萎えちゃうナァー。

 綜合地所の新規採用取り消しは愛情の表現、と大分長く書いたのに、もうやめた。

 社友の松本君とその友人が来訪したことも書いたのに、二度は書かない。

 とりあえず、今日は、もう書かない。頭にきた。やはり長く書いた時には、ワードで保存しておくべきなのか、参った、参った。

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国民協議会の新年会に出席。

2009-02-10 08:29:44 | インポート

二月八日(日)晴れ。

 八時に起きてすぐ朝食。産経新聞に「週刊新潮」の例の記事に関することが出ていたが、まあ産経にしてみれば高みの見物、というところか。知り合いの産経の記者氏に電話したところ、「今回の『新潮』の特集は、まだ『新潮45』で小説風に掲載されるのならともかく、どこの週刊誌や新聞でも相手にしないものを、取り上げて、『週刊新潮』を潰す気なのか。と社内でも冷ややか、と言うよりも笑い話となっている」と話していた。

 朝食の後は、出かけるまで机に向かい、「大吼」の記事作り。十一時半に愚妻に送ってもらい保土ヶ谷へ。今日は、午後三時より、茨城県の結城郡にある会場で、日頃からお世話になっている国民協議会の新年会が開催される。

 十一時五十分の横須賀線で品川へ。品川から山手線で秋葉原。ここで「つくばエキスプレス」に乗り換えて、「守谷」という駅へ。そこから常総線で「下妻」まで行った。着いたのは二時六分。お陰様で持って行った本を半分ほど読めた。それでも、「守谷」からの常総線に乗った時はチヨット不安になった。というのも、事前に会場に問い合わせしたときは、駅からタクシーで十五分程度と聞いていたので、安心していたのだが、途中の駅を見ると、タクシーどころか、駅に人の気配も無い。周りは、田んぼや畑が延々と続いている。暖かいのでついウトウトしてしまって、目を開けたら、前に座っていた若いカップルが私を見て笑っていた。歳のせいか、きっとだらしのない寝方をしていたのに違いない。知らぬふりをして、車窓に目をやれば、まだ田畑が続いていた。

 果たしてタクシーはいるのかと、不安にかられて駅を出てみると、良かった、客待ちのタクシーがいた。早速乗って会場へ。途中、春霞かと思えば、風が強いために土ぼこりが舞っていた。十五分ほどで会場着。諸先輩にご挨拶してテーブルに着く。長谷川光良、小林宗雪の社友と同席。私は「鏡開き」を仰せつかって壇上へ。様々なアトラクションの後に、五時に閉会。

 帰りは、幸いに長谷川光良氏のBMWに同乗させて貰い横浜へ。三郷を過ぎたあたりで、社友で、炉端焼「花笠」を経営している尼野保君から連絡があり、私が以前、機関誌に掲載した「忘れ得ぬ人々・陸上部の先輩Y君」のお墓参りに、親しい人たちを誘って行った帰りに「やまと」で飲んでいるので来て下さい。と連絡が入ったが、私が横浜に着くまでに、すでに皆さんベロベロ状態とのことで、ではまた。ということになった。

 横浜に着いた後は、家族と合流して、下町の中華「上海軒」にて夕食。

コメント (2)
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