白雲去来

蜷川正大の日々是口実

満員電車で通勤している子供が心配。

2020-02-26 13:50:56 | 日記
二月十七日(月)晴れ。

朝食は、紅鮭、納豆、新玉ねぎの味噌汁。昼は、カレーうどん。夜は、鶏のもも肉の塩麹で漬けたものをグリル焼き、餃子。お供は「黒霧島」。

コロナウイルスの感染を心配して、政府は、大規模なスポーツ、音楽イベントなどを自粛、あるいは中止をしてほしいと言っている。人が大勢集まる所での集団感染を心配した結果だろうが、満員電車で毎日通勤している子供が、正直言って心配である。男女に限らずサラリーマンは、つくづく企業戦士だと思う。イベントなどの心配をするよりも満員電車の心配をしてほしいものだ。私の子供は、昨日から時差通勤をしており朝早く家を出るが、電車の状況を聞いてみたら、「変わらず満員」とのこと。何とかならないのかねぇー。

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先輩の墓参へ。

2020-02-24 13:13:29 | 日記
二月十六日(日)曇り。

ぼやーっとしていても確実に月日は流れる。少年老いやすく学なり難し、か。老い易く、どころかもうすでに立派な?前期高齢者である。建設的なことを何もせずとも腹は減る。鶏のから揚げ、キャベツの千切り、生わかめの味噌汁に白菜のおしんこ。昼は抜いた。

今日は、平成十年の二月の十六日に亡くなられた先輩の山崎邦雄さんのお墓参りに、共通の友人たちと出かけた。このメンバーでの墓参はもう十年以上続けている。元ドリームランドという遊園地だった跡地の一部が市営の墓地となった。そこに山崎先輩は眠っている。それぞれが手を合わせてご無沙汰を詫びた。その後、新横浜駅近くにあるお寺へ。そこには私の後輩の板垣哲雄のお墓がある。私は正月に来たばかりだが、友人たちは一年ぶり。お墓を掃除して花と線香を手向けた。

伊勢佐木町の「敦煌」という中華料理屋で直会。このお店は、お世話になった中華料理の横浜のマイスターである鄭さんに紹介されたお店だ。その鄭さんも数年前に亡くなられた。年年歳歳、花相似たり。歳歳年年、人同じからずやか。

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私にとっては今でもアイドルだ。

2020-02-24 12:41:54 | 日記
二月十五日(土)曇り。

昨日、愚妻にチケットを取ってもらい山下公園の前にある神奈川県民ホールにて行われた「夢グループ」主催の「橋幸夫と歌の仲間たち」というコンサートに行った。愚妻は気に入った歌手が出るときにたまに行っているようだが、私は初めてである。第一部は、橋幸夫、伊東ゆかり、三田明、牧村三枝子、金沢明子、門倉有希の六人。

案内が来た時のチケットはA席が五千円だった。演歌のコンサートに行く気はなかったので、ふーん。という感じだったが、次に案内が来たときは二千円にダウンしていた。おそらく空席が多かったのだろう。二千円ならば行ってみようかという気になって出かけた。席は二階の一番前、まあまあで二千円ならば文句は言えない。

一番感動したのは、伊東ゆかりだった。「恋のしずく」や「小指の思い出」を生で聞いていると、若かった頃のことがその歌と伊東ゆかりに重なり、感動している自分に驚いた。彼女は確か四曲歌った。考えてみれば一曲五百円である。安いものである私が高校生の頃のトップアイドルだった彼女が、あれから五十年余が過ぎてお互いに歳をとったが、私にとってはアイドルのままの彼女がいる。

終了後、県民ホールの三階の大きな窓から外を見ると、曇っていたせいもあって山下公園が大きなモノクロームの絵のようになっていた。余韻にひたりながら会場を後にし、愚妻と久しぶりに中華飯店へ寄り杯を重ねた。伊東ゆかりのディナーショーでもあったならぜひ行ってみようと思った。

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野村先生の生誕の日。

2020-02-21 12:46:54 | 日記
二月十四日(金)曇り。

巷ではバレンタインデーとやらで浮かれているが、今日は私にとっては野村先生の生誕の日という思いの方が強い。先立つ六日に、大熊雄次氏らの野村一門の有志が厳粛なる「生誕祭」を行った。先生は昭和十年のお生まれだから、ご存命ならば八十五歳となる。当然ながら八十五歳の先生は想像もつかないが、先生は亡くなられた五十八歳のままで、門下生である我々の方が先生の晩年の歳をとうに過ぎて老いて行く。

野村先生が獄中で恩師、三上卓先生の訃報に接し、詠んだ句が、白菊の白が溢れてどまらぬ。昭和四十六年十月二十五日のことである。野村先生の遺影の前に白菊を飾って手を合わせた。

私が大切にしている野村先生関係の年中行事がある。まず上記、二月十四日の「生誕祭」、三月三日は、昭和五十二年に、先生が「財界の営利至上主義を撃つ」として同志と共に経団連会館を占拠した「経団連事件」の日、昭和三十八年七月十五日、政界の腐敗と堕落を糾弾するために、当時、建設大臣であった河野一郎の私邸焼き討ち事件を起こした「炎の警鐘」の日、そして平成五年十月二十日の「群青忌」である。早い話が、自身のハラワタの腐り止めでもある。



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「昭和の怪物」の中に銀座のママがいた。

2020-02-21 11:31:22 | 日記
二月十三日(木)雨後晴れ。

何気なく寄ったスーパーに、新物の「生ワカメ」を見つけた時には頬がゆるむ。この程度で喜ぶのは、長年の浪人生活ゆえか。朝は、その生ワカメを使ってわかめスープにした。ウエィパーを溶かした熱湯の中に生ワカメを入れると、みるみるきれいな深緑色に変わる。昔から「初ものを食えば七十五日生きのびる」と言われているのを信じつつ食す。後は、清風楼の焼売、もやしいため、白菜のおしんこ。昼は、冷食のペペロンチーノパスタに再びわかめスープ。

夜は、宝島編集部編の『昭和の怪物ー日本の闇を牛耳った120人の生きざま』(宝島社新書)をお供に、吉田町の「梅や」の「手羽餃子」、肉野菜炒めを「黒霧島」で楽しんだ。まあ「日本の闇を牛耳った」人の中に銀座のクラブ「順子」のママが出ていたのはご愛嬌か。そうそう「梅や」の「手羽餃子」は一度、蒸籠で蒸してからグリルで軽く焼いて食べると美味しい。冷凍ものなので、グリルだけだと、皮だけ焼けて中まで火が通っていないことがある。

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