スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

妾&実体の認識

2014-03-20 19:03:55 | 歌・小説
 ロゴージンの殺人のシーンの描写が僕には不思議に感じられた理由は,『白痴』のテクストのうちにあります。どうしてもナスターシャが処女であったとは考えられないのです。ふたつほど指摘しておきます。
                         
 第二編の7で,コーリャが新聞を声に出して読むシーンがあります。その記事の中に,美人の妾ということばが出てくるのですが,これはナスターシャのことです。新聞といっても,低質で三流のタブロイド紙のようなものかもしれず,それが事実であると確証することはできません。ただ,現実的にこうしたことばで記事として成立するということは,事実であるかどうかは別に,ナスターシャが妾だということは,一般的な認識であったことは間違いないといえます。
 第一編の15では,ムイシュキン公爵がナスターシャに求婚します。そのとき,ナスターシャを純潔と言ったムイシュキンのことを,ナスターシャ自身が一笑に付し,それは小説の中のお話だと答えます。このシーンは16にも続いていますが,そこではナスターシャ自身が,自分はトーツキイの妾であったと言っているのです。
 これらのテクストにおいてどういうロシア語が用いられ,それがロシア語においてどのような意味を有しているのかとういうことは僕には分かりません。ただ,新潮文庫版の訳者である木村浩が,妾ということばで訳したのであるからには,それに同質の意味があるだろうと思うのです。そうであるならば,妾というのは,単に囲われていた,いい換えれれば金銭的援助や物質的援助を受けていたというだけでなく,性的な意味において何がしかの搾取を受けていたと理解するのが妥当だろうと思うのです。
                         
 共通認識としてだけではなく,ナスターシャ自身がそう言っていることからして,やはりそう理解するのが正しいのだと思います。しかし『ドストエフスキー 謎とちから』には,これとは違った読解の可能性が表明されているのです。

 スピノザは第一部定義三で,実体を,それ自身のうちにあるものであると同時に,それ自身によって概念conceptusされるものと規定しました。デカルトの実体の定義は,その存在のために神の協力だけを必要とするものということで,スピノザの定義とは異なっています。そこでデカルトが協力というとき,神だけが原因となって実体が発生するという因果論的意味を含むのか,そうではないのかは分かりません。実体がそれ自身のうちにあるということについては,これとは別の観点から次の考察の対象に据える予定ですが,仮にデカルトが実体は神のうちにあるものと考えていたのだとしても,その神が最高に完全であるということのうちには,少なくとも神はそれ自身のうちになければならないということが含まれていたと僕は考えます。だからそれとの対比において,実体がそれ自身のうちにあるということが具体的にどういう意味であるのかということは,デカルトも理解できただろうと思いますし,デカルトに限らず,スピノザと同時代の哲学者には理解可能なことであったろうと思うのです。
 これに対して,実体がそれ自身によってconceptusされなければならないということがどういうことであるのかということは,同時代の哲学者にとっても,理解が困難であったのではないかと僕は思います。河合がいう躓きの石ということばを用いれば,僕はスピノザの哲学におけるその大きな躓きの石のひとつが,第一部定義三であったかもしれないと考えます。
 第一部定理五に対するライプニッツの疑問というのは,スピノザからすればライプニッツが実体を様態であるかのように把握してるということに端を発します。その疑問の内容というのは,実体を様態的区別によって区別するために発生しているからです。第一部定義四にあるように,知性は実体の本性を属性として認識しますから,各々の属性もまたそれ自身によってconceptusされなければなりません。これはスピノザが第一部定理一〇で主張していることです。このゆえに,属性は無限に多くあるとしても,それは数の上で分類され得るようなものとしてあるのではなく,むしろ唯一の属性が無限にあるというように把握されなければならないのです。
 異なった観点からではありますが,デカルトもライプニッツも,同様に実体を様態であるかのように認識していたことになります。実体の十全な認識は,それだけ困難なことであるといえるでしょう。
コメント
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