相手に攻撃を仕掛けた選手がすかされ,急所を打ちつけて悶絶するというシーンは,最近はほとんど見受けられなくなったような印象ですが,少なくとも僕がプロレスを見始めるようになった頃には,頻繁にではありませんが,見ることがありました。僕はこれをギミックのひとつとみなしますが,通常はそうは解されないのではないかとも思います。
僕が二種に分類したギミックのうち,これは弱みを強調する方に該当します。ただ,通常のギミックとははっきりと異なる点がありまして,このギミックは試合の決着をつけるために用いられることが多々あったのです。たとえば大巨人はそのプロレス的才能のゆえに,自ら両腕をロープに挟んで弱みを見せましたが,だからといってそれで攻撃を受けて負けてしまうというわけではありませんでした。一方,力を見せつけるためのギミックの方も,たとえばリフトアップされて投げられた選手がそれで負けてしまうというような用いられ方をされたわけではありません。弱みであれ強みであれ,それを観客に見せるということが目的なのであって,試合を終らせるための方法ではないのです。これが本来のギミックが有している本質であるとすれば,ひとり急所打ちは明らかにそれとは一線を画しているといえます。僕が見た中でも,ジャンボ・鶴田がネイチャーボーイに挑戦したNWA選手権の試合で,鶴田がひとり急所打ちをやり,スリーカウントを奪われたというシーンがあります。
試合は決着したけれども,それはアクシデントのせいであったということを,観衆に強調する意味合いがここにはあるといえます。そしてその意味合いのゆえに,僕はこれをギミックとみなすわけです。したがってこのギミックは,どちらかといえば大きな試合で用いられることが多かったものです。力が拮抗した強い選手の試合でなければ,これを結末に用いる意味がないからです。
最初は本当のアクシデントでこうしたことが発生したのかもしれません。たとえそうであっても,これをギミックとして開発した人も,豊かなプロレス的才能の持ち主であったと思うのです。
スピノザからすれば,知性が実体を十全に認識したならば,それは分割不能であるということをその知性は必然的に認めるということになります。第二部定理四三にあるように,スピノザにとって真理の規範というのは真理それ自身ですから,実体の分割不可能性を知性が正しく認識するために必要とされるのは,実体の十全な認識であり,そしてそれだけで十分であるということになります。つまり第一部定理一三系でいわれていることの把握のためには,物体的実体の十全な認識というのは,必要条件であると同時に,十分条件でもあるということになります。
物体的実体の分割不可能性に関しては,スピノザはその逆の立場,つまり物体的実体が分割可能であり,そのゆえに物体的実体は神ではない,翻訳すれば延長の属性は神の本性を構成しないと考える立場の哲学者たちへの反論という形で,第一部定理一五備考で詳しい説明を与えています。これほど詳しく説明しなければならなかったほど,当時の主流は,物体的実体は分割され得ると理解することにあったのだといえるでしょう。ただ,ここではそれについては詳しくは説明しません。なぜ物体的実体が分割不可能であるのかということは現在の考察にとってはそれほど重要なことではなく,延長の属性が神の本性を構成するということ,他面からいえば物体的実体とは,実体としてみた場合には神にほかならないということさえ確実になればそれで十分だからです。なのでこれに関するスピノザの主張については当該個所をお読みください。
第一部定理二一と二二は,神の絶対的本性から,その直接無限様態と間接無限様態が生起するということを示しています。したがって,延長の属性は神の絶対的本性を構成するので,そこから直接無限様態と間接無限様態は生起します。そしてそのように生起したこれらの無限様態は,必然の第一の意味において必然的に存在することになります。延長の属性の場合,直接無限様態が運動と静止で,間接無限様態が不変な形相を有するものとしての全宇宙でしたから,これらが必然的に存在するということまで,明らかになったということになります。ここのところ展開された議論は,このことを演繹的に示すことに主眼を置いていたというように理解しておいてください。
僕が二種に分類したギミックのうち,これは弱みを強調する方に該当します。ただ,通常のギミックとははっきりと異なる点がありまして,このギミックは試合の決着をつけるために用いられることが多々あったのです。たとえば大巨人はそのプロレス的才能のゆえに,自ら両腕をロープに挟んで弱みを見せましたが,だからといってそれで攻撃を受けて負けてしまうというわけではありませんでした。一方,力を見せつけるためのギミックの方も,たとえばリフトアップされて投げられた選手がそれで負けてしまうというような用いられ方をされたわけではありません。弱みであれ強みであれ,それを観客に見せるということが目的なのであって,試合を終らせるための方法ではないのです。これが本来のギミックが有している本質であるとすれば,ひとり急所打ちは明らかにそれとは一線を画しているといえます。僕が見た中でも,ジャンボ・鶴田がネイチャーボーイに挑戦したNWA選手権の試合で,鶴田がひとり急所打ちをやり,スリーカウントを奪われたというシーンがあります。
試合は決着したけれども,それはアクシデントのせいであったということを,観衆に強調する意味合いがここにはあるといえます。そしてその意味合いのゆえに,僕はこれをギミックとみなすわけです。したがってこのギミックは,どちらかといえば大きな試合で用いられることが多かったものです。力が拮抗した強い選手の試合でなければ,これを結末に用いる意味がないからです。
最初は本当のアクシデントでこうしたことが発生したのかもしれません。たとえそうであっても,これをギミックとして開発した人も,豊かなプロレス的才能の持ち主であったと思うのです。
スピノザからすれば,知性が実体を十全に認識したならば,それは分割不能であるということをその知性は必然的に認めるということになります。第二部定理四三にあるように,スピノザにとって真理の規範というのは真理それ自身ですから,実体の分割不可能性を知性が正しく認識するために必要とされるのは,実体の十全な認識であり,そしてそれだけで十分であるということになります。つまり第一部定理一三系でいわれていることの把握のためには,物体的実体の十全な認識というのは,必要条件であると同時に,十分条件でもあるということになります。
物体的実体の分割不可能性に関しては,スピノザはその逆の立場,つまり物体的実体が分割可能であり,そのゆえに物体的実体は神ではない,翻訳すれば延長の属性は神の本性を構成しないと考える立場の哲学者たちへの反論という形で,第一部定理一五備考で詳しい説明を与えています。これほど詳しく説明しなければならなかったほど,当時の主流は,物体的実体は分割され得ると理解することにあったのだといえるでしょう。ただ,ここではそれについては詳しくは説明しません。なぜ物体的実体が分割不可能であるのかということは現在の考察にとってはそれほど重要なことではなく,延長の属性が神の本性を構成するということ,他面からいえば物体的実体とは,実体としてみた場合には神にほかならないということさえ確実になればそれで十分だからです。なのでこれに関するスピノザの主張については当該個所をお読みください。
第一部定理二一と二二は,神の絶対的本性から,その直接無限様態と間接無限様態が生起するということを示しています。したがって,延長の属性は神の絶対的本性を構成するので,そこから直接無限様態と間接無限様態は生起します。そしてそのように生起したこれらの無限様態は,必然の第一の意味において必然的に存在することになります。延長の属性の場合,直接無限様態が運動と静止で,間接無限様態が不変な形相を有するものとしての全宇宙でしたから,これらが必然的に存在するということまで,明らかになったということになります。ここのところ展開された議論は,このことを演繹的に示すことに主眼を置いていたというように理解しておいてください。