スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ワンダーランドカップ&集合論と公理論

2019-05-20 19:17:14 | 競輪
 昨日の宇都宮記念の決勝。並びは長島‐神山の栃木,渡辺‐近藤‐小埜‐勝瀬の南関東で菅田と浅井と村上は単騎。
 小埜との取り合いを制して長島がスタートを取って前受け。3番手に村上,4番手に菅田,5番手に渡辺,最後尾に浅井で周回。残り2周から渡辺が上昇。長島を抑えはしたものの抑えられた長島が番手に飛びつき,近藤との競り合いで打鐘。渡辺はペースを落とし,残り1周のホームに入ってからまた踏み込みました。番手の競り合いはバックに入るまで続きました。隊列が短くなったところで最後尾にいた浅井が発進。バックの出口では渡辺を捲り切って先頭。7番手からスイッチしてうまく続いたのが村上。直線を前にして浅井の速度がやや鈍り,村上が楽に差し切って優勝。村上マークのレースになった菅田が4分の3車身差で2着。捲った浅井が1車身半差で3着。
                                        
 優勝した京都の村上義弘選手は昨年10月に松戸で行われた千葉記念以来の記念競輪35勝目。宇都宮記念は初優勝。このレースは南関東がラインとしては有利でしたが,渡辺の後ろを回る3人に主軸となるような選手が不在のため,渡辺が捨て身で駆けることはない可能性もあるとみていました。内枠が有利なので前受けができなかったのは仕方ありませんが,自分も勝てるような競走をするにしても,渡辺はもっと早い段階で抑えにいくべきだったように思います。個人の脚力だけでいえば単騎の選手が上でしたので,浅井が捲って村上が差すというのは,それだけでみれば順当な結果だったといえなくもありません。

 僕は数学に詳しいわけでなく,集合論がどういう理論であるかよく分かっていませんから,これから示す疑問は的外れであるかもしれません。ただ,僕の疑問がどういう類のものであるかということは説明しておきます。
 それが具体的にどのような内容であるのか知りませんが,集合論というからにはひとつの論理であり,体系化されたものであるのではないかと僕は推測します。するとその論理体系を肯定するような公理系を作成することが可能であると僕には思えるのです。現にそういう公理系が存在していたとしてもおかしくないし,仮に存在していないのだとしても,作成することが不可能であるとしたらなぜ不可能であるのかが僕には理解しかねるのです。単純にいえば,体系化することが可能であるような論理というのは,その論理がどのようなものであったとしても,いい換えれば数学に限らずどんな論理の体系であったとしても,公理系に置き換えることが可能であると僕は予想しているのです。
 なので僕は,公理論と集合論が,方法論的な意味において対立するとはどうしても思えないのです。バディウAlain Badiouは集合論を分析的方法による数学だと思い込んでいる,というなら分かります。近藤の発言というのは確かにそのように解することはできなくもありません。公理論を理解していないというのは,分析的方法が唯一の方法であって,綜合的方法はバディウの眼中にはなかったというように解することができなくもないからです。ところが近藤は,バディウは集合論が数学だと思っていたという主旨のことを言っているのですから,これだと集合論は分析的方法でしか行うことができない理論である,他面からいえば綜合的方法には置き換えることができない理論であると言っているように思えるのです。
 このことはそもそも近藤が集合論というのをどのような数学であると解しているのかという観点も必要になるでしょう。近藤自身が,集合論は公理系によっては記述することができないと考えているなら,集合論者であるバディウは公理論を理解していないという結論が,バディウの研究内容がどうであるかということと無関係に出てくるであろうからです。
コメント
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