スピノザは完全性と善悪は同様に思惟の様態cogitandi modiであるというのですが,その意味合いには若干の相違があります。完全性perfectioはあるものが比較の上で不完全とみなされるがゆえに思惟の様態であるのですが,善bonumと悪malumはそうみなされるものの本性essentiaとは絶対的に無関係であるがために思惟の様態なのです。この点には注意しておいてください。
スピノザはそれでも善と悪を記号としては使わなければならないといいます。そしてその理由として,人間の本性natura humanaの型として人間の観念ideaを形成する必要性をあげています。ここでスピノザが人間の本性の型というとき,何を意味しようとしているのかということはこの部分の文脈だけでは判然としません。ただ,スピノザは人間の精神mens humanaのことを人間の本性という場合がありますが,それはこの部分ではおそらく妥当しません。これはこの文章がそのようには解釈できないということ,つまりこの意味で人間の本性の型ということはできないということから明白でしょう。また,この部分より前の第三部諸感情の定義一で,スピノザは人間の本性について言及しています。これはここでいう人間の本性の型とみることができないわけではありません。しかしここは第四部の序言なので,第四部定義八でいわれている人間の本性の方が,よりここでの意味に近いと考えておくのが妥当でしょう。スピノザはほぼ同じ意味のことを本性といったり本質といったりますが,第三部諸感情の定義一では本質の方が用いられているのに対し,第四部定義八では本質だけでなく本性もまた同時に用いられていることからも,このことは裏付けられそうです。したがってここではこの人間の本性の型というのを,人間が能動的である場合の本性というように解しておくことにします。
実はこの人間の本性の型が何を意味するのかということは,第四部序言の解釈よりも『人間における自由Man for Himself』との関連で重要です。フロムErich Seligmann Frommはこのことも援用しているからです。
さらに次のこともいっておく必要があります。
スピノザの哲学では,神Deusは本性naturaの必然性necessitasによって働くagereのであって,自由意志voluntas liberaや善意によって働くのではありません。そしてこの本性の必然性は,神に内在するすべてのものに共通の必然性です。したがってすべての様態modusもこの本性の必然性によって働くのです。ですから,神の本性の必然性に則したすべてのことは生じるのに対し,神の本性の必然性に則らないことは何も生じません。スピノザが必然の対義語を不可能であるというのはこのことに依拠しています。したがって,神のことを主体subjectumであるというとすれば,本性の必然性によって働くもののことを主体といっていることになりますから,自然Naturaのうちに存在するすべてのものは主体であるということになります。もちろんそのようにいうことは可能ですが,もしもそのようにいうのであれば,主体ということが何か積極的なことを意味することはできなくなってしまうでしょう。これは,仮に神が自由意志によってすべてのことを決定するdeterminareがゆえに主体であるといわれる場合と比較するなら明白なのであって,その場合には,少なくとも神に内在するすべてのものは,神の意志によってそれが主体であるとされる場合には主体であり得ますが,そうでない場合には主体であることはできません。つまりこの場合には主体であるものと主体ではないものが存在することになりますので,主体ということが何らかの積極的な意味を有することができます。しかしスピノザはそもそもこのことを認めないのですから,大きな主体もなければ小さな主体もないと主張しているに等しいと解するのが適切です。よってヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelからみたときに,スピノザの哲学には主体という概念notioが欠如していると解したのは当然だと僕は思いますし,大きな主体であれ小さな主体であれ,スピノザの哲学に主体という概念が欠如しているのは事実です。
なお,この点については次のことに注意してください。一般的にXにYが欠如しているといわれたら,それはXに対する否定的な言及だといわれるでしょう。ヘーゲルはスピノザの哲学に対してそのような言及をしているのですが,僕はそうではありません。
スピノザはそれでも善と悪を記号としては使わなければならないといいます。そしてその理由として,人間の本性natura humanaの型として人間の観念ideaを形成する必要性をあげています。ここでスピノザが人間の本性の型というとき,何を意味しようとしているのかということはこの部分の文脈だけでは判然としません。ただ,スピノザは人間の精神mens humanaのことを人間の本性という場合がありますが,それはこの部分ではおそらく妥当しません。これはこの文章がそのようには解釈できないということ,つまりこの意味で人間の本性の型ということはできないということから明白でしょう。また,この部分より前の第三部諸感情の定義一で,スピノザは人間の本性について言及しています。これはここでいう人間の本性の型とみることができないわけではありません。しかしここは第四部の序言なので,第四部定義八でいわれている人間の本性の方が,よりここでの意味に近いと考えておくのが妥当でしょう。スピノザはほぼ同じ意味のことを本性といったり本質といったりますが,第三部諸感情の定義一では本質の方が用いられているのに対し,第四部定義八では本質だけでなく本性もまた同時に用いられていることからも,このことは裏付けられそうです。したがってここではこの人間の本性の型というのを,人間が能動的である場合の本性というように解しておくことにします。
実はこの人間の本性の型が何を意味するのかということは,第四部序言の解釈よりも『人間における自由Man for Himself』との関連で重要です。フロムErich Seligmann Frommはこのことも援用しているからです。
さらに次のこともいっておく必要があります。
スピノザの哲学では,神Deusは本性naturaの必然性necessitasによって働くagereのであって,自由意志voluntas liberaや善意によって働くのではありません。そしてこの本性の必然性は,神に内在するすべてのものに共通の必然性です。したがってすべての様態modusもこの本性の必然性によって働くのです。ですから,神の本性の必然性に則したすべてのことは生じるのに対し,神の本性の必然性に則らないことは何も生じません。スピノザが必然の対義語を不可能であるというのはこのことに依拠しています。したがって,神のことを主体subjectumであるというとすれば,本性の必然性によって働くもののことを主体といっていることになりますから,自然Naturaのうちに存在するすべてのものは主体であるということになります。もちろんそのようにいうことは可能ですが,もしもそのようにいうのであれば,主体ということが何か積極的なことを意味することはできなくなってしまうでしょう。これは,仮に神が自由意志によってすべてのことを決定するdeterminareがゆえに主体であるといわれる場合と比較するなら明白なのであって,その場合には,少なくとも神に内在するすべてのものは,神の意志によってそれが主体であるとされる場合には主体であり得ますが,そうでない場合には主体であることはできません。つまりこの場合には主体であるものと主体ではないものが存在することになりますので,主体ということが何らかの積極的な意味を有することができます。しかしスピノザはそもそもこのことを認めないのですから,大きな主体もなければ小さな主体もないと主張しているに等しいと解するのが適切です。よってヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelからみたときに,スピノザの哲学には主体という概念notioが欠如していると解したのは当然だと僕は思いますし,大きな主体であれ小さな主体であれ,スピノザの哲学に主体という概念が欠如しているのは事実です。
なお,この点については次のことに注意してください。一般的にXにYが欠如しているといわれたら,それはXに対する否定的な言及だといわれるでしょう。ヘーゲルはスピノザの哲学に対してそのような言及をしているのですが,僕はそうではありません。