第四部定理六三系証明の過程では,第四部定理六一への訴求がみられます。これは次の定理Propositioです。
「理性から生ずる欲望は過度になることができない」。
欲望cupiditasというのを一般的に理解するなら,それは第三部諸感情の定義一にあるように,現実的に存在する人間が何らかの仕方であることをなすように決定されると考えられる限りにおいて,人間の現実的本性actualis essentiaそのもののことです。よって理性ratioから欲望が生じる,いい換えれば第三部定理三により,働きをなすagere限りにおいて現実的に存在する人間のうちに欲望が生じるとすれば,第三部定義二により,現実的に存在する人間の本性natura humanaが,一般的な意味における人間の本性から十全に考えられる何らかの事柄をなすように決定されると考えられる限りで,その人間の現実的本性を意味することになります。要するにこの場合は,現実的に存在するある人間の本性と,一般的な人間の本性が一致します。
そこでもしもこのような欲望が過度になり得るのだとしたら,一般的な意味での人間の本性がその人間の本性を超過するということを意味します。過度になるということと超過するということは同じことであるからです。したがってこれは,人間の本性がその本性によって決定されている力potentiaを超越した力を発揮するということを意味します。あるいは実在性realitasというのを力という観点からみた本性であるということに注意すれば,人間に一般の実在性を超過した実在性を人間が有するという意味になります。これらのことは明白に矛盾であるといえるでしょう。したがってもしも現実的に存在するある人間の欲望が,その人間の理性から生じた欲望であったとしたら,その欲望が過度になるということはあり得ないのです。
これは他面からいえば,もしも僕たちの欲望が僕たちの受動passioによって決定されるなら,僕たちの欲望は僕たちの力を超過し得るということを意味します。僕たちはできもしないことを欲望することがありますが,それはすべて僕たちの理性から生じるのではなく,受動によって決定されているのです。
神Deusの本性essentiaは無限に多くのinfinita属性attributumによって構成されます。このこと自体は僕たちも十全に認識し得ることだと僕は考えます。僕たちには認識するcognoscereことができない属性が無限に多くあるということ自体は,僕たちにも十全に認識することができると僕は考えるconcipereからです。なので第一部定義六を,僕たちが十全に認識することができるということを,僕は肯定します。
一方で,僕たちが認識することができるのは延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributum,より正確にいえば延長の属性に対応する思惟の属性だけです。なので僕たちが認識することができるのは,延長の属性において説明される限りでの神であり,また延長の属性に対応する思惟の属性によって説明される限りでの神であるということになります。そしてこの限りにおいて認識される神が,第一部定義六でいわれている神,無限に多くの属性によってその本性を構成されている神であるかといえば,そうではないと僕は考えます。このような仕方で絶対に無限な実在としての神を認識するためには,無限に多くの属性を認識することができる必要があり,それら各々の属性によって説明される限りでの神を認識することによって,第一部定義六に示されている神が十全に認識されると僕は考えるからです。いい換えればこのような仕方では,絶対に無限な実体substantiaとしての神を,僕たちは認識することできないと僕は考えるのです。
このふたつのことは両立すると僕は考えています。僕たちは絶対に無限な実体としての神を,属性によって十全に認識することができないのだとしても,僕たちには認識することができない属性もあるのであり,かつそうした属性もまた神の本性を構成していると十全に認識すること自体は可能だと考えるからです。というのも,僕たちにとっては未知の属性は,延長の属性および延長の属性に対応する思惟の属性とは実在的にrealiter区別されるがゆえに,僕たちはそれを認識することができないということ,いわば僕たちにとってそれが未知となる原因causaを,僕たちは正しく認識することができるからです。
両立はするのですが,このふたつの神の説明の仕方の間には,はっきり観点の相違があると僕は考えます。
「理性から生ずる欲望は過度になることができない」。
欲望cupiditasというのを一般的に理解するなら,それは第三部諸感情の定義一にあるように,現実的に存在する人間が何らかの仕方であることをなすように決定されると考えられる限りにおいて,人間の現実的本性actualis essentiaそのもののことです。よって理性ratioから欲望が生じる,いい換えれば第三部定理三により,働きをなすagere限りにおいて現実的に存在する人間のうちに欲望が生じるとすれば,第三部定義二により,現実的に存在する人間の本性natura humanaが,一般的な意味における人間の本性から十全に考えられる何らかの事柄をなすように決定されると考えられる限りで,その人間の現実的本性を意味することになります。要するにこの場合は,現実的に存在するある人間の本性と,一般的な人間の本性が一致します。
そこでもしもこのような欲望が過度になり得るのだとしたら,一般的な意味での人間の本性がその人間の本性を超過するということを意味します。過度になるということと超過するということは同じことであるからです。したがってこれは,人間の本性がその本性によって決定されている力potentiaを超越した力を発揮するということを意味します。あるいは実在性realitasというのを力という観点からみた本性であるということに注意すれば,人間に一般の実在性を超過した実在性を人間が有するという意味になります。これらのことは明白に矛盾であるといえるでしょう。したがってもしも現実的に存在するある人間の欲望が,その人間の理性から生じた欲望であったとしたら,その欲望が過度になるということはあり得ないのです。
これは他面からいえば,もしも僕たちの欲望が僕たちの受動passioによって決定されるなら,僕たちの欲望は僕たちの力を超過し得るということを意味します。僕たちはできもしないことを欲望することがありますが,それはすべて僕たちの理性から生じるのではなく,受動によって決定されているのです。
神Deusの本性essentiaは無限に多くのinfinita属性attributumによって構成されます。このこと自体は僕たちも十全に認識し得ることだと僕は考えます。僕たちには認識するcognoscereことができない属性が無限に多くあるということ自体は,僕たちにも十全に認識することができると僕は考えるconcipereからです。なので第一部定義六を,僕たちが十全に認識することができるということを,僕は肯定します。
一方で,僕たちが認識することができるのは延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributum,より正確にいえば延長の属性に対応する思惟の属性だけです。なので僕たちが認識することができるのは,延長の属性において説明される限りでの神であり,また延長の属性に対応する思惟の属性によって説明される限りでの神であるということになります。そしてこの限りにおいて認識される神が,第一部定義六でいわれている神,無限に多くの属性によってその本性を構成されている神であるかといえば,そうではないと僕は考えます。このような仕方で絶対に無限な実在としての神を認識するためには,無限に多くの属性を認識することができる必要があり,それら各々の属性によって説明される限りでの神を認識することによって,第一部定義六に示されている神が十全に認識されると僕は考えるからです。いい換えればこのような仕方では,絶対に無限な実体substantiaとしての神を,僕たちは認識することできないと僕は考えるのです。
このふたつのことは両立すると僕は考えています。僕たちは絶対に無限な実体としての神を,属性によって十全に認識することができないのだとしても,僕たちには認識することができない属性もあるのであり,かつそうした属性もまた神の本性を構成していると十全に認識すること自体は可能だと考えるからです。というのも,僕たちにとっては未知の属性は,延長の属性および延長の属性に対応する思惟の属性とは実在的にrealiter区別されるがゆえに,僕たちはそれを認識することができないということ,いわば僕たちにとってそれが未知となる原因causaを,僕たちは正しく認識することができるからです。
両立はするのですが,このふたつの神の説明の仕方の間には,はっきり観点の相違があると僕は考えます。