高知市文化プラザかるぽーとで指された昨日の第50期棋王戦五番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太棋王が6勝,増田康宏八段が1勝。
振駒で藤井棋王の先手となり角換わり。後手の増田八段が早めに6筋の位を取ったので,腰掛銀になる前に先手から仕掛けていく将棋に。中盤は後手から攻めのタイミングを窺う展開になりましたので,作戦としては後手の方が成功していたように感じられました。
ここで後手は☖8七歩と垂らしました。先手は☗3九飛と寄りましたが,これが後手の想定にはなかったようです。
後手から狙いの攻め筋として,☖4四飛があります。☗同角☖同角で9九の香車を狙うというもの。また☖4四飛に☗同角と取らないなら,☖4七飛成~☖3八銀があります。ただ☗3九飛と寄られると,後者の筋は封じられている上に,前者の筋も☗3一飛という反撃筋を与えているため,この図ですぐに☖4四飛とするより後手の条件が悪くなっています。なので後手はその筋を指さずに受けに回ったのですが,実戦の変化は先手に分があるものでした。なので後手は図の局面かその前の段階で☖4四飛を決行しておかなければならなかっということになるでしょう。
藤井棋王が先勝。第二局は22日に指される予定です。
第一部定義三が実体substantiaの要件を構成するとするなら,実体であり得るものは,他に原因causaを依存して存在するものであってはなりませんし,それを認識するcognoscereために他に原因を依存するものであってはなりません。つまりそれ自身の原因がそれ自身でなければなりませんし,それを概念するconcipereために必要とするのもそれ自身の観念ideaだけでなければなりません。そしてこの要件を満たし得るのは神Deusだけです。なのでスピノザの哲学では,第一部定理一四にあるように,実在する実体は神だけであるということになるのです。
ではこの考察で実体として仮定していたネコは何なのかということが問題になるでしょう。吉田の講義ではこれをスピノザの哲学とだけ関連させて説明していますので,ここではその点をもう少し詳しく説明していきます。
まずこの種の実体に最も近い哲学上の概念として僕が思いつくのは,イデアideaといわれるものです。イデア論はプラトンPlatoが主張した学説で,古い歴史を有します。簡単にいえば,この世界において実在的なものをイデアと称し,僕たちが知覚するpercipereものはイデアに似たものだとする考え方です。ネコの例でいえば,ネコというイデアが実在していて,僕たちは諸々のネコを知覚するけれど,それはすべてネコというイデアの似た姿を有しているからで,そのイデアの似姿をしているもののことを僕たちはすべからくネコと称するとする説です。このように考えれば,ネコという実体があって,個々のネコはその実体であるネコの変状affectio,すなわち様態modiであるというように解することができるでしょう。そしてこれはネコにだけ妥当するわけではなく,イヌであろうとウマであろうと妥当することになりますから,この種のイデア論は,確かにネコを,あるいはイヌそしてウマを,実体として規定しているとみることができると思います。
この種のイデア論は,イデアそのものの認識cognitioが真の認識であるということを結論として導かざるを得なくなるので,事物は一般的に認識される方がより明瞭判然と認識されることになります。この点はスピノザの考え方と正反対です。よってこの種のイデア論は,スピノザの哲学とはきわめて相性が悪いことになります。
振駒で藤井棋王の先手となり角換わり。後手の増田八段が早めに6筋の位を取ったので,腰掛銀になる前に先手から仕掛けていく将棋に。中盤は後手から攻めのタイミングを窺う展開になりましたので,作戦としては後手の方が成功していたように感じられました。
ここで後手は☖8七歩と垂らしました。先手は☗3九飛と寄りましたが,これが後手の想定にはなかったようです。
後手から狙いの攻め筋として,☖4四飛があります。☗同角☖同角で9九の香車を狙うというもの。また☖4四飛に☗同角と取らないなら,☖4七飛成~☖3八銀があります。ただ☗3九飛と寄られると,後者の筋は封じられている上に,前者の筋も☗3一飛という反撃筋を与えているため,この図ですぐに☖4四飛とするより後手の条件が悪くなっています。なので後手はその筋を指さずに受けに回ったのですが,実戦の変化は先手に分があるものでした。なので後手は図の局面かその前の段階で☖4四飛を決行しておかなければならなかっということになるでしょう。
藤井棋王が先勝。第二局は22日に指される予定です。
第一部定義三が実体substantiaの要件を構成するとするなら,実体であり得るものは,他に原因causaを依存して存在するものであってはなりませんし,それを認識するcognoscereために他に原因を依存するものであってはなりません。つまりそれ自身の原因がそれ自身でなければなりませんし,それを概念するconcipereために必要とするのもそれ自身の観念ideaだけでなければなりません。そしてこの要件を満たし得るのは神Deusだけです。なのでスピノザの哲学では,第一部定理一四にあるように,実在する実体は神だけであるということになるのです。
ではこの考察で実体として仮定していたネコは何なのかということが問題になるでしょう。吉田の講義ではこれをスピノザの哲学とだけ関連させて説明していますので,ここではその点をもう少し詳しく説明していきます。
まずこの種の実体に最も近い哲学上の概念として僕が思いつくのは,イデアideaといわれるものです。イデア論はプラトンPlatoが主張した学説で,古い歴史を有します。簡単にいえば,この世界において実在的なものをイデアと称し,僕たちが知覚するpercipereものはイデアに似たものだとする考え方です。ネコの例でいえば,ネコというイデアが実在していて,僕たちは諸々のネコを知覚するけれど,それはすべてネコというイデアの似た姿を有しているからで,そのイデアの似姿をしているもののことを僕たちはすべからくネコと称するとする説です。このように考えれば,ネコという実体があって,個々のネコはその実体であるネコの変状affectio,すなわち様態modiであるというように解することができるでしょう。そしてこれはネコにだけ妥当するわけではなく,イヌであろうとウマであろうと妥当することになりますから,この種のイデア論は,確かにネコを,あるいはイヌそしてウマを,実体として規定しているとみることができると思います。
この種のイデア論は,イデアそのものの認識cognitioが真の認識であるということを結論として導かざるを得なくなるので,事物は一般的に認識される方がより明瞭判然と認識されることになります。この点はスピノザの考え方と正反対です。よってこの種のイデア論は,スピノザの哲学とはきわめて相性が悪いことになります。