⑲-14の最後のところでいったふたつの手の思想をミックスする順というのは,次のようなものです。
⑲-10の第2図では,まず☗7四銀と打ちます。これには☖同飛の一手で☗6三銀の王手飛車取りを掛けます。これにも☖7一王です。
ここで☗7四銀成と飛車を取ってしまうのは⑲-13の変化に進んで先手の負けです。
⑲-13の第2図の☖6六金を打たせないというのが⑲-14の変化でした。なので上の図で飛車を取らずに金の方を取る☗2二角成というのが,ふたつの思想をミックスした手になります。
銀を渡したのに飛車を取らず金の方を取るというのはとても考えにくい順です。ところがこの図は先手の勝ちなのです。ここから後手が先手玉を攻めてくることになりますが,先手がそれをどう受けていくのかということをこれから検討していくことになります。
これまでに何度か書いてきたことではありますが,僕はかねがね書簡六十七の二が遺稿集Opera Posthumaに掲載されなかったことを不思議に思っていました。これは次のような事情によります。
この書簡は20世紀になってから発見されたものです。現在の『スピノザ往復書簡集Epistolae』はゲプハルトCarl Gebhardtが編纂したものが元になっているものが多いのですが,この書簡はその編纂よりも後になって発見されたものなので,後に加えられました。その際に書簡六十七の二として,収録されたのは,この書簡が書簡六十七と関連したものであったからです。
書簡六十七はアルベルトAlbert Burghがスピノザに送ったものであって,ステノNicola Stenoが書簡六十七の二の中でスピノザにしているように,カトリックの立場からスピノザの思想を批判するものです。なのでここに挟まれることになりました。書簡六十七には1675年9月3日付という記述があります。書かれた時期もそれほど変わらないとみられているのです。
書簡六十七の方は遺稿集に掲載されました。ところがその内容は,確かにカトリックの立場からスピノザの思想を批判することを企てているものの,書簡六十七と書簡六十七の二との間には大きな相違があります。書簡六十七というのは単にアルベルトがスピノザに対して罵詈雑言を浴びせているだけの内容なのですが,書簡六十七の二はそのような罵詈雑言はみられず,むしろそういってよければ知性的にスピノザを説得しようとしているのであり,と同時に,スピノザがその説得に応じることはないだろうということをステノ自身が心得ているような記述になっているのです。したがって,書簡六十七と書簡六十七の二を比較したときに,どちらが遺稿集に掲載するに相応しい内容を有していたのかといえば,これは圧倒的に書簡六十七の二の方なのです。ところが遺稿集の編集者たちは,書簡六十七の方は遺稿集に掲載したのに書簡六十七の二の方は掲載を見送りました。これが僕には不思議に思えてならなかったのです。
書簡六十七と書簡六十七の二に書簡六十七の方を優先的に遺稿集に掲載する理由がなかったというわけではありません。スピノザはアルベルトには返信を送っているからです。
⑲-10の第2図では,まず☗7四銀と打ちます。これには☖同飛の一手で☗6三銀の王手飛車取りを掛けます。これにも☖7一王です。
ここで☗7四銀成と飛車を取ってしまうのは⑲-13の変化に進んで先手の負けです。
⑲-13の第2図の☖6六金を打たせないというのが⑲-14の変化でした。なので上の図で飛車を取らずに金の方を取る☗2二角成というのが,ふたつの思想をミックスした手になります。
銀を渡したのに飛車を取らず金の方を取るというのはとても考えにくい順です。ところがこの図は先手の勝ちなのです。ここから後手が先手玉を攻めてくることになりますが,先手がそれをどう受けていくのかということをこれから検討していくことになります。
これまでに何度か書いてきたことではありますが,僕はかねがね書簡六十七の二が遺稿集Opera Posthumaに掲載されなかったことを不思議に思っていました。これは次のような事情によります。
この書簡は20世紀になってから発見されたものです。現在の『スピノザ往復書簡集Epistolae』はゲプハルトCarl Gebhardtが編纂したものが元になっているものが多いのですが,この書簡はその編纂よりも後になって発見されたものなので,後に加えられました。その際に書簡六十七の二として,収録されたのは,この書簡が書簡六十七と関連したものであったからです。
書簡六十七はアルベルトAlbert Burghがスピノザに送ったものであって,ステノNicola Stenoが書簡六十七の二の中でスピノザにしているように,カトリックの立場からスピノザの思想を批判するものです。なのでここに挟まれることになりました。書簡六十七には1675年9月3日付という記述があります。書かれた時期もそれほど変わらないとみられているのです。
書簡六十七の方は遺稿集に掲載されました。ところがその内容は,確かにカトリックの立場からスピノザの思想を批判することを企てているものの,書簡六十七と書簡六十七の二との間には大きな相違があります。書簡六十七というのは単にアルベルトがスピノザに対して罵詈雑言を浴びせているだけの内容なのですが,書簡六十七の二はそのような罵詈雑言はみられず,むしろそういってよければ知性的にスピノザを説得しようとしているのであり,と同時に,スピノザがその説得に応じることはないだろうということをステノ自身が心得ているような記述になっているのです。したがって,書簡六十七と書簡六十七の二を比較したときに,どちらが遺稿集に掲載するに相応しい内容を有していたのかといえば,これは圧倒的に書簡六十七の二の方なのです。ところが遺稿集の編集者たちは,書簡六十七の方は遺稿集に掲載したのに書簡六十七の二の方は掲載を見送りました。これが僕には不思議に思えてならなかったのです。
書簡六十七と書簡六十七の二に書簡六十七の方を優先的に遺稿集に掲載する理由がなかったというわけではありません。スピノザはアルベルトには返信を送っているからです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます