昨晩の第69回船橋記念。
好発はルクスディオン。それを内からエンテレケイアとカプリフレイバーが追っていく形。2馬身差でスワーヴシャルル。ジャスティンとティアラフォーカスは併走でサンダーゼウス。ポーラチュカとギガースも併走。アイゴールド,ラヴケリーと続いてファイナルキングとカールスパートの併走。最後尾にエルロイ。最初の400mは22秒8のハイペース。
3コーナーではエンテレケイアが単独の先頭に立ち,カプリフレイバーが2番手。好発を決めたルクスディオンは2馬身差の3番手に後退し,外からスワーヴシャルル,内からジャスティンの追い上げ。直線の入口でカプリフレイバーとの差を広げたエンテレケイアが,そのまま抜け出して快勝。スワーヴシャルルが単独の2番手に上がったところ,外からギガースが追い込んできて,かなり差を詰めたものの届かず,スワーヴシャルルが4馬身差で2着。ギガースがアタマ差で3着。
優勝したエンテレケイアはアフター5スター賞以来の勝利で南関東重賞3勝目。1000mでは南関東では敵なしという状況ですから,順当な優勝。スピードを前面に出す馬は,休養すると急激に能力が衰えてしまうケースがあるのですが,この馬は順調にレースを使い続けています。順調にレースに使い続けていられる限りは,これからも活躍が期待できると思います。父はアジアエクスプレス。はとこの子に2021年のホープフルステークスと2022年の中日新聞杯を勝っている現役のキラーアビリティ。Entelecheiaはアリストテレスの哲学用語で,完成された現実性。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手はアフター5スター賞以来の南関東重賞37勝目。船橋記念は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞70勝目。船橋記念は初勝利。
このことから分かるのは,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausはバチカン写本を慎重に扱っていたのであって,不用意に他人にそれを読ませてしまうようなことは避けていたということです。なのでこの観点からすれば,チルンハウスがバチカン写本を自主的にステノNicola Stenoに渡してしまうということはあり得ないことのように思えます。とくにホイヘンスChristiaan Huygensには自身がそれを所持していることを秘匿し,自身がそれを読むべき人物であると評価していたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対しても独断で読ませるようなことはせず,スピノザにその許可を求めていたチルンハウスが,カトリックの中でそれなりの立場にあったステノに草稿を渡してしまうようなことは,考えられないといっていいくらいでしょう。
一方で別の事情があります。ステノがバチカン写本を入手したのは,スピノザの死後のことです。スピノザが死んだのが1677年の2月で,ステノが草稿を入手したのは1677年8月です。スピノザの遺稿集Opera Posthumaはこの年の暮れには発刊されていて,この時期はおそらくその編集中であったと推測されます。たぶんチルンハウスはそのことを知っていたでしょう。したがってこの時期のチルンハウスは,すでにバチカン写本を所持し続ける意味が薄れつつありました。遺稿集が発刊されればそこには『エチカ』が掲載されるのは間違いありませんから,もし読む必要が生じたら,そちらを読めばいいからです。なのでこの時期のチルンハウスは,スピノザが生きていた頃ほどにはバチカン写本を慎重に取り扱う必要はなくなっていました。こうしたチルンハウスの気持ちの変化が,草稿がステノの手に渡ってしまったことといくらかの関係があったとみることもできるでしょう。
解説の方で,おとり捜査のようなやり口でチルンハウスがステノにバチカン写本を巻き上げられたと書いてあるそうですから,そこには何らかの根拠はあるのでしょう。ただその根拠が何か分からない以上はその事情を考察することが無意味というわけではありません。ただ考察するのであれば,ここに示した二点はそのための論拠にしなければならないと思います。
吉田はこの後でチルンハウスとステノについての概略を説明しています。
好発はルクスディオン。それを内からエンテレケイアとカプリフレイバーが追っていく形。2馬身差でスワーヴシャルル。ジャスティンとティアラフォーカスは併走でサンダーゼウス。ポーラチュカとギガースも併走。アイゴールド,ラヴケリーと続いてファイナルキングとカールスパートの併走。最後尾にエルロイ。最初の400mは22秒8のハイペース。
3コーナーではエンテレケイアが単独の先頭に立ち,カプリフレイバーが2番手。好発を決めたルクスディオンは2馬身差の3番手に後退し,外からスワーヴシャルル,内からジャスティンの追い上げ。直線の入口でカプリフレイバーとの差を広げたエンテレケイアが,そのまま抜け出して快勝。スワーヴシャルルが単独の2番手に上がったところ,外からギガースが追い込んできて,かなり差を詰めたものの届かず,スワーヴシャルルが4馬身差で2着。ギガースがアタマ差で3着。
優勝したエンテレケイアはアフター5スター賞以来の勝利で南関東重賞3勝目。1000mでは南関東では敵なしという状況ですから,順当な優勝。スピードを前面に出す馬は,休養すると急激に能力が衰えてしまうケースがあるのですが,この馬は順調にレースを使い続けています。順調にレースに使い続けていられる限りは,これからも活躍が期待できると思います。父はアジアエクスプレス。はとこの子に2021年のホープフルステークスと2022年の中日新聞杯を勝っている現役のキラーアビリティ。Entelecheiaはアリストテレスの哲学用語で,完成された現実性。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手はアフター5スター賞以来の南関東重賞37勝目。船橋記念は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞70勝目。船橋記念は初勝利。
このことから分かるのは,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausはバチカン写本を慎重に扱っていたのであって,不用意に他人にそれを読ませてしまうようなことは避けていたということです。なのでこの観点からすれば,チルンハウスがバチカン写本を自主的にステノNicola Stenoに渡してしまうということはあり得ないことのように思えます。とくにホイヘンスChristiaan Huygensには自身がそれを所持していることを秘匿し,自身がそれを読むべき人物であると評価していたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対しても独断で読ませるようなことはせず,スピノザにその許可を求めていたチルンハウスが,カトリックの中でそれなりの立場にあったステノに草稿を渡してしまうようなことは,考えられないといっていいくらいでしょう。
一方で別の事情があります。ステノがバチカン写本を入手したのは,スピノザの死後のことです。スピノザが死んだのが1677年の2月で,ステノが草稿を入手したのは1677年8月です。スピノザの遺稿集Opera Posthumaはこの年の暮れには発刊されていて,この時期はおそらくその編集中であったと推測されます。たぶんチルンハウスはそのことを知っていたでしょう。したがってこの時期のチルンハウスは,すでにバチカン写本を所持し続ける意味が薄れつつありました。遺稿集が発刊されればそこには『エチカ』が掲載されるのは間違いありませんから,もし読む必要が生じたら,そちらを読めばいいからです。なのでこの時期のチルンハウスは,スピノザが生きていた頃ほどにはバチカン写本を慎重に取り扱う必要はなくなっていました。こうしたチルンハウスの気持ちの変化が,草稿がステノの手に渡ってしまったことといくらかの関係があったとみることもできるでしょう。
解説の方で,おとり捜査のようなやり口でチルンハウスがステノにバチカン写本を巻き上げられたと書いてあるそうですから,そこには何らかの根拠はあるのでしょう。ただその根拠が何か分からない以上はその事情を考察することが無意味というわけではありません。ただ考察するのであれば,ここに示した二点はそのための論拠にしなければならないと思います。
吉田はこの後でチルンハウスとステノについての概略を説明しています。
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