スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&自然

2014-02-20 19:08:44 | 将棋
 一昨日と昨日,弘前市民会館で指された第63期王将戦七番勝負第四局。
 羽生善治三冠の先手で渡辺明王将ごきげん中飛車。先手の超速銀から4筋で銀が向い合う形。先手は左の銀も前線に繰り出していき,双方が薄い玉のまま茫洋とした中盤戦。先手の角の働きが乏しくなり,指し辛くなったように感じられました。
                         
 後手が☗2三銀を受けた局面。先手は☗3五歩と突きました。
 ☖2四角とするべきであったというような感想がありましたが,取ってすぐに悪くなるとも思えないので,☖同歩は自然な一手のように思えます。☗4五桂と跳ね,☖4二角と逃げ,2筋の突破を含みに☗3四銀。☖5四歩と打ち,☗4六銀と撤退しました。
                         
 ここで指し方が分からなくなってしまったというのが後手の感想。☖4四歩と突いたのですが,☗3三歩と打たれて☖3一金。☗2三飛成☖2二歩☗1二龍と進みました。
                         
 駒損は取り返せるのですが,ほとんど無条件に龍を作られ,序盤で☖1二香と上がっていた手が完全にマイナスに。以降の指し手からみますとここでは後手がまずくしてしまっているように思えます。不自然に進めたという感じでもなく,はっきりとした敗因がよく分からない一局でした。
 羽生三冠が連勝で2勝2敗のタイに。第五局は27日と28日です。

 クレーファーのテーゼの中心部分,すなわちスピノザの哲学は自然学に重きを置くという点に関しては,僕もクレーファーWilhelmus Nicolaas Antonius Kleverにほぼ同意します。あるいは全面的に同意するといっても構いません。ただ,何をもって自然学と解するのかという点について,たぶん僕とクレーファーでは異なった考え方を有していると思われます。なので全面的にとはいわずに,ほぼ同意するといっておきます。
 スピノザが自然Naturaというとき,客観的有esse objectivumすなわち観念ideaを排除する傾向があります。その傾向に従うならば,自然とは観念の総体である知性intellectusの外部に実在する,形相的有esse formaleのことになります。もっとも人間が認識できるのは,第二部公理五にあるように思惟の様態cogitandi modiと物体corpusだけですから,この場合には物体が自然に属し,思惟の様態は自然には含まれないと解するのが妥当です。おそらくクレーファーはこの解釈に則して自然といっているように思われます。哲学的因果性が自然的因果性の上位に配置されてはならないということと,客観的因果性が形相的因果性の上位に置かれてはならないという主張は,どこかリンクするふしが窺えるからです。
 これに反して僕は,客観的有も含めて自然と解します。これは今に始まった話ではなく,このブログを通じて一貫している僕の姿勢です。あえてスピノザのことばの使い方に反して僕がそのようにいうのは,たとえば第三部の序文を根拠とします。そこでスピノザは自然は常に同一で自然の法則も同一であるという主旨のことを表明し,このゆえに感情affectusもそれと同一の法則から発生するといいます。確かにスピノザがここで感情というとき,身体corpusの刺激状態のことを念頭に置いているかもしれません。しかし第三部定義三にあるように,感情とは,身体の状態であると同時に精神mensのうちのその観念でもあるのです。
 したがってこれでみれば,精神を構成する観念も,自然と同様の摂理で発生するということになります。そしてそうであるならば,わざわざ物体だけを自然と称し,観念をそこから除外する合理的な理由というものが僕にはないように思えるのです。なので僕は思惟の様態も含め,それを自然というのです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ユングフラウ賞&クレーファ... | トップ | スピノザと表現の問題&自然... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

将棋」カテゴリの最新記事