馬場が残した馬場自身の資料としては,ほかに『オレの人生・プロレス・旅』があります。
これは1998年の12月にジャイアントサービスから出版されたもの。馬場は1999年1月31日に亡くなっていますので,死の直前に出版されたということになり,遺作といっていいでしょう。
著者は馬場ですが,馬場の死後に評論家の菊池孝が明らかにしたところによれば,制作にあたっては菊池が手伝ったそうです。菊池は自身の役目は話の引き出し役で,5回から6回,2時間から3時間ほど会ってテープを回したといっています。ただ,テープを起こす際に何も手伝わなかったとは考えにくく,実際は馬場が語った事柄を菊池が再構成したものと考えた方がよいように思います。『王道十六文』のあとがきで,馬場は菊池だけ個人名を出して感謝の念を書いていますので,菊池が馬場の著書の出版を手伝うのは,以前からあったことだと考えられます。
自伝的内容ですが,いわゆる自伝とは大きく異なります。この本は時系列にはなっていないからです。16の題材をテーマとして,時系列とは無関係に馬場がそれについて語っています。そのテーマとは順に高校野球,プロ野球,日本プロレス,酒,麻雀,全日本プロレス,日本の旅,稼ぎ,アメリカの旅,煙草(葉巻),ギャンブル,ゴルフ,アザー・スポーツ,食事・甘いもの・コーヒー,喧嘩,読書・音楽・絵です。
馬場が一人称でそれらについて語るという構成になっています。テーマとの関係から,ここでしか明らかになっていないような内容も多くなっています。また,古くから親しくしていた記者を相手に話したものという性質から,ざっくばらんというか,とてもくだけたものになっていて,読みやすさという点では一番かと思います。
記録的な価値という意味ではそれほど高いとはいえないかもしれません。ただ馬場の人間性は,最もよく表れているといえるのではないでしょうか。
無限であるものはすべからく永遠性を有するということ。これはスピノザの哲学のテーゼとして成立すると僕は考えています。たとえば第一部定理一三系というのは,そのことを暗に示していると考えられるからです。
この系は,第一部定理一五備考で言及されることになります。スピノザはそこで,物体的実体が有限であり,分割可能であると考える著作家たちに対して,反論を試みています。そしてそうした著作家たちの見解が,どのような基礎の上に成立しているかを説明します。その基礎とは,無限である量を仮定することではありません。むしろ無限なる量が測定可能であり,なおかつそれが有限な部分から組織されていると仮定することなのです。これを受けてスピノザは次のようにいっています。
「無限なる量は測定可能ではなくかつ有限な部分から成りえない」。
この言明は,無限というのはある量なのではあるけれども,それを測定することは不可能であるというように読解することができます。しかし僕の考えでは,このテクストをそのように理解するのは危険です。もしもある事物が量であるならば,それは必ず分割可能であると理解されるおそれがあるからです。したがってこのテクストが述べているのは,無限というのは測定不可能な量であるというように解するよりも,端的に無限とは量ではないと解する方が安全なくらいで,量的概念によって考えられ得ないというのが真の意味でしょう。逆にいえば,もしもある事物が何らかの量的概念によって十全に認識され得るならば,その事物は無限ではない,つまり有限であるということになります。
このテクストをこう読解すれば,無限であるものが永遠であるということが必然的に帰結すると僕は考えます。なぜなら,無限であるものがもしも永遠性を有さないと仮定するならば,それはある持続のうちに説明されなければなりません。しかし持続というのは明らかに量的概念だからです。つまりある事物が持続の相の下に認識されるなら,その事物は無限ではないのです。同様に時間でも空間でもなんでも,量的概念によって認識可能であるものは,すべからく無限ではありません。つまりそれは有限であるということになります。
これは1998年の12月にジャイアントサービスから出版されたもの。馬場は1999年1月31日に亡くなっていますので,死の直前に出版されたということになり,遺作といっていいでしょう。
著者は馬場ですが,馬場の死後に評論家の菊池孝が明らかにしたところによれば,制作にあたっては菊池が手伝ったそうです。菊池は自身の役目は話の引き出し役で,5回から6回,2時間から3時間ほど会ってテープを回したといっています。ただ,テープを起こす際に何も手伝わなかったとは考えにくく,実際は馬場が語った事柄を菊池が再構成したものと考えた方がよいように思います。『王道十六文』のあとがきで,馬場は菊池だけ個人名を出して感謝の念を書いていますので,菊池が馬場の著書の出版を手伝うのは,以前からあったことだと考えられます。
自伝的内容ですが,いわゆる自伝とは大きく異なります。この本は時系列にはなっていないからです。16の題材をテーマとして,時系列とは無関係に馬場がそれについて語っています。そのテーマとは順に高校野球,プロ野球,日本プロレス,酒,麻雀,全日本プロレス,日本の旅,稼ぎ,アメリカの旅,煙草(葉巻),ギャンブル,ゴルフ,アザー・スポーツ,食事・甘いもの・コーヒー,喧嘩,読書・音楽・絵です。
馬場が一人称でそれらについて語るという構成になっています。テーマとの関係から,ここでしか明らかになっていないような内容も多くなっています。また,古くから親しくしていた記者を相手に話したものという性質から,ざっくばらんというか,とてもくだけたものになっていて,読みやすさという点では一番かと思います。
記録的な価値という意味ではそれほど高いとはいえないかもしれません。ただ馬場の人間性は,最もよく表れているといえるのではないでしょうか。
無限であるものはすべからく永遠性を有するということ。これはスピノザの哲学のテーゼとして成立すると僕は考えています。たとえば第一部定理一三系というのは,そのことを暗に示していると考えられるからです。
この系は,第一部定理一五備考で言及されることになります。スピノザはそこで,物体的実体が有限であり,分割可能であると考える著作家たちに対して,反論を試みています。そしてそうした著作家たちの見解が,どのような基礎の上に成立しているかを説明します。その基礎とは,無限である量を仮定することではありません。むしろ無限なる量が測定可能であり,なおかつそれが有限な部分から組織されていると仮定することなのです。これを受けてスピノザは次のようにいっています。
「無限なる量は測定可能ではなくかつ有限な部分から成りえない」。
この言明は,無限というのはある量なのではあるけれども,それを測定することは不可能であるというように読解することができます。しかし僕の考えでは,このテクストをそのように理解するのは危険です。もしもある事物が量であるならば,それは必ず分割可能であると理解されるおそれがあるからです。したがってこのテクストが述べているのは,無限というのは測定不可能な量であるというように解するよりも,端的に無限とは量ではないと解する方が安全なくらいで,量的概念によって考えられ得ないというのが真の意味でしょう。逆にいえば,もしもある事物が何らかの量的概念によって十全に認識され得るならば,その事物は無限ではない,つまり有限であるということになります。
このテクストをこう読解すれば,無限であるものが永遠であるということが必然的に帰結すると僕は考えます。なぜなら,無限であるものがもしも永遠性を有さないと仮定するならば,それはある持続のうちに説明されなければなりません。しかし持続というのは明らかに量的概念だからです。つまりある事物が持続の相の下に認識されるなら,その事物は無限ではないのです。同様に時間でも空間でもなんでも,量的概念によって認識可能であるものは,すべからく無限ではありません。つまりそれは有限であるということになります。
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