昨晩の第2回フリオーソレジェンドカップ。
隊列が定まるまでには時間を要しましたが,発馬後の正面から逃げの手に出たのはイグザルト。ヘラルドバローズが2番手となって3番手にヒーローコール。その後ろはデュードヴァンとリンゾウチャネルとブリッグオドーンの3頭。さらにスマッシングハーツとギガキングが併走で続き,ナニハサテオキを挟んでアドマイヤルプスとゴールドハイアーも併走。後方2番手がエメリミットで離れた最後尾にキャッスルブレイヴ。最初の800mは50秒3のスローペース。
3コーナーからは2番手がヘラルドバローズと向正面で押し上げていったギガキングの併走に。3馬身差の4番手にギガキングを追ってきたナニハサテオキが上がりました。直線に入ると前3頭の外からギガキングが先頭に。しかし追ってきたナニハサテオキの末脚が優り,ギガキングを差し切って優勝。ギガキングが3馬身差で2着。前の2頭をやり過ごして後から差してくる形になったリンゾウチャネルが1馬身半差の3着。
優勝したナニハサテオキは南関東受賞初制覇。JRAデビューで1勝。昨年から南関東に転入して以降は6勝,2着4回とパーフェクト連対。ここ2回は南関東重賞で連続の2着でしたから,いつ勝ってもおかしくない馬でした。ギガキングが前を一掃するようなレースになったところをマークして追い上げていくという展開面での恩恵はありましたが,そのギガキングは船橋の中距離では抜群の強さをみせてきた馬ですから,それを差し切って3馬身という差をつけたのは大きく評価できるでしょう。父はジャングルポケット。
騎乗した船橋の森泰斗騎手は若潮スプリント以来の南関東重賞62勝目。フリオーソレジェンドカップは初勝利。管理している浦和の平山真希調教師は南関東重賞2勝目。フリオーソレジェンドカップは初勝利。
ここまでの注意を踏まえて,コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの内容を検討していきます。ただし,『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』に加えられている説明も,完全とはいえない側面がありますから,先にその点を説明していきます。
スピノザがフォールブルフVoorburgを離れてハーグDen Haagに移ったのは,1669年の暮れか1670年早々だったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれています。先述したようにスピノザはすぐにスペイクの家に間借りをしたのではなく,ウェルフェという寡婦の家に間借りしました。事実上は屋根裏部屋だったようです。ウェルフェはウィレムという法律家の妻だったのですが,ウィレムが死んでしまったので収入を得る必要が生じ,スピノザを住まわせることになったというのがナドラーSteven Nadlerが確定的に記述していることです。
ここに後にコレルスJohannes Colerusが住むことになります。『スピノザの生涯と精神』の訳者である渡辺は,その時点でウェルフェは死んでいたとしています。だから僕もコレルスはウェルフェからは話を聞くことができなかったといいました。しかしナドラーは,コレルスはウェルフェからも話を聞いたとしています。つまりナドラーはその時点でウェルフェがまだ生きていたと考えているのです。スピノザの部屋は実験室であると説明されていますが,スピノザはその部屋で食事をしたり眠ったりもしたのであって,そこに一日中こもっていることもあったという主旨のことをコレルスは書いていて,これはコレルスがウェルフェから聞き取ったことだとナドラーはみているわけです。
僕は渡辺のいっていることの方が正しいのではないかと考えています。ひとつは単純に,コレルスがウェルフェの名前を間違えて記述しているからです。スピノザが住んでいた家の寡婦はウェルフェであったということは,渡辺説でもナドラー説でも一致していますが,コレルスはその寡婦の名前をフェーレンと記述しているのです。もしもコレルスがウェルフェ本人から話を聞き取ったのだとすれば,その人の名前を間違えるということはあり得ないように僕には思えるのです。
もうひとつ理由があって,これはコレルスによるスピノザが住んでいた部屋に関する記述に関連します。
隊列が定まるまでには時間を要しましたが,発馬後の正面から逃げの手に出たのはイグザルト。ヘラルドバローズが2番手となって3番手にヒーローコール。その後ろはデュードヴァンとリンゾウチャネルとブリッグオドーンの3頭。さらにスマッシングハーツとギガキングが併走で続き,ナニハサテオキを挟んでアドマイヤルプスとゴールドハイアーも併走。後方2番手がエメリミットで離れた最後尾にキャッスルブレイヴ。最初の800mは50秒3のスローペース。
3コーナーからは2番手がヘラルドバローズと向正面で押し上げていったギガキングの併走に。3馬身差の4番手にギガキングを追ってきたナニハサテオキが上がりました。直線に入ると前3頭の外からギガキングが先頭に。しかし追ってきたナニハサテオキの末脚が優り,ギガキングを差し切って優勝。ギガキングが3馬身差で2着。前の2頭をやり過ごして後から差してくる形になったリンゾウチャネルが1馬身半差の3着。
優勝したナニハサテオキは南関東受賞初制覇。JRAデビューで1勝。昨年から南関東に転入して以降は6勝,2着4回とパーフェクト連対。ここ2回は南関東重賞で連続の2着でしたから,いつ勝ってもおかしくない馬でした。ギガキングが前を一掃するようなレースになったところをマークして追い上げていくという展開面での恩恵はありましたが,そのギガキングは船橋の中距離では抜群の強さをみせてきた馬ですから,それを差し切って3馬身という差をつけたのは大きく評価できるでしょう。父はジャングルポケット。
騎乗した船橋の森泰斗騎手は若潮スプリント以来の南関東重賞62勝目。フリオーソレジェンドカップは初勝利。管理している浦和の平山真希調教師は南関東重賞2勝目。フリオーソレジェンドカップは初勝利。
ここまでの注意を踏まえて,コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの内容を検討していきます。ただし,『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』に加えられている説明も,完全とはいえない側面がありますから,先にその点を説明していきます。
スピノザがフォールブルフVoorburgを離れてハーグDen Haagに移ったのは,1669年の暮れか1670年早々だったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれています。先述したようにスピノザはすぐにスペイクの家に間借りをしたのではなく,ウェルフェという寡婦の家に間借りしました。事実上は屋根裏部屋だったようです。ウェルフェはウィレムという法律家の妻だったのですが,ウィレムが死んでしまったので収入を得る必要が生じ,スピノザを住まわせることになったというのがナドラーSteven Nadlerが確定的に記述していることです。
ここに後にコレルスJohannes Colerusが住むことになります。『スピノザの生涯と精神』の訳者である渡辺は,その時点でウェルフェは死んでいたとしています。だから僕もコレルスはウェルフェからは話を聞くことができなかったといいました。しかしナドラーは,コレルスはウェルフェからも話を聞いたとしています。つまりナドラーはその時点でウェルフェがまだ生きていたと考えているのです。スピノザの部屋は実験室であると説明されていますが,スピノザはその部屋で食事をしたり眠ったりもしたのであって,そこに一日中こもっていることもあったという主旨のことをコレルスは書いていて,これはコレルスがウェルフェから聞き取ったことだとナドラーはみているわけです。
僕は渡辺のいっていることの方が正しいのではないかと考えています。ひとつは単純に,コレルスがウェルフェの名前を間違えて記述しているからです。スピノザが住んでいた家の寡婦はウェルフェであったということは,渡辺説でもナドラー説でも一致していますが,コレルスはその寡婦の名前をフェーレンと記述しているのです。もしもコレルスがウェルフェ本人から話を聞き取ったのだとすれば,その人の名前を間違えるということはあり得ないように僕には思えるのです。
もうひとつ理由があって,これはコレルスによるスピノザが住んでいた部屋に関する記述に関連します。
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