書簡七十五は書簡七十四への返信です。書簡七十四は1675年12月16日付でオルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに出されたもので,遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
オルデンブルクはこの1ヶ月ほど前に書簡七十一を送っています。ただその書簡があまりに短かったために,スピノザは不満を抱きました。その不満を解消させるためにこの手紙が送られたという経緯になります。
オルデンブルクが説明しているのは,スピノザの思想のどの部分が人びとの難点となっているかということです。それは,スピノザがすべての事象および行動の運命的な必然性necessitasを主張しているということです。オルデンブルクによればこれを容認してしまうと,すべての律法や徳virtusといった宗教religioの中枢が断ち切られ,報償や刑罰が無意味になってしまうのです。
さらにオルデンブルクはスピノザにふたつの疑問を投げ掛けています。ひとつスピノザが奇蹟miraculumと無智を同じ意味に解しているように思われるけれどもそれはなぜかということです。これを質問するにあたってオルデンブルクはラザロの復活やイエスの復活を例として挙げ,こうしたことは神Deusの能力potentiaに帰することができるのだから,そうした奇蹟を信じることが無智と同じ意味であるはずがないという主旨の主張をしています。
もうひとつは,神が人間の本性natura humanaを具有しているということをスピノザは否定しているけれども,それはなぜかというものです。ここでもオルデンブルクは聖書の文章を抽出し,神が人間の本性を具えているという意味をそれらの章句の中に見出し,それらの章句をスピノザはどう解するのかと質問しています。
スピノザの哲学と関連させていえば,前者の質問は神と自然Naturaはそれほど異なったものではなく,自然法則はいたるところで同一であるということと関連します。奇蹟を自然法則を超越したものと解するなら,自然のうちに奇蹟が生じる余地はないことになります。後者の質問は,神からの人格の排除と関連します。神を人間のようなものと考えるのは,人間に特有の考え方といわなければならないのであり,この意味での優越性を人間は有していないのです。
それではコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの中身を検討していきましょう。せっかくの機会なので,スピノザが死ぬ前日の記述からみていきます。
1677年2月22日,この日は土曜であったとコレルスJohannes Colerusは書いています。この日にスペイクは妻とふたりで教会に行き,牧師,というのはコレルスの前任者と思われますが,その牧師の予備の説教を聞きに行きました。帰宅したのは午後4時ごろで,コレルスが帰宅するとスピノザが自身の部屋から下りてきたとされています。スピノザの部屋のことをコレルスは表部屋の寝台と記述していますが,それが何を意味するかは僕にはよく分かりません。ただ,下りてきたといわれている以上,スピノザが間借りしていたのはスペイクの家の1階ではなかったということは確かでしょう。
下りてきたスピノザは煙草をふかし,しばらくの間スペイクと話をしました。その中には午後にあった牧師の説教の話もあったと書かれています。この牧師はコルデスという名前ですが,コルデスは博学の上に誠実であったから,スピノザの尊敬を受けていて,スピノザもたまに説教を聞きに行くこともあったとスペイクはいっていますので,それが本当であればこのときに説教の内容が話題となっても不思議ではありません。ただ,前もっていっておいたように,スペイクにはスピノザのことをコレルスによく思ってもらいたいという気持ちを持つ十分な理由があり,このエピソードはコレルスにそう思わせる内容を有していますから,すべてが本当のことであったということはできないかもしれません。ただこの日にスピノザがスペイクと何らかの話をしたということについては疑う必要はないのではないかと思います。
翌日は日曜だったのでルター教会では礼拝がありました。その礼拝にスペイクと妻が出かける前にスピノザはまた下りてきて,ふたりと話をしました。このときにスピノザはアムステルダムAmsterdamから医師を呼んでいて,この医師が年老いた鶏を調理してそのスープを昼食としてスピノザに摂らせるようにいいつけたので,スペイクはその通りにしたといっています。実際に調理したのは家人となっていますから,たぶんスペイクの妻だったでしょう。
オルデンブルクはこの1ヶ月ほど前に書簡七十一を送っています。ただその書簡があまりに短かったために,スピノザは不満を抱きました。その不満を解消させるためにこの手紙が送られたという経緯になります。
オルデンブルクが説明しているのは,スピノザの思想のどの部分が人びとの難点となっているかということです。それは,スピノザがすべての事象および行動の運命的な必然性necessitasを主張しているということです。オルデンブルクによればこれを容認してしまうと,すべての律法や徳virtusといった宗教religioの中枢が断ち切られ,報償や刑罰が無意味になってしまうのです。
さらにオルデンブルクはスピノザにふたつの疑問を投げ掛けています。ひとつスピノザが奇蹟miraculumと無智を同じ意味に解しているように思われるけれどもそれはなぜかということです。これを質問するにあたってオルデンブルクはラザロの復活やイエスの復活を例として挙げ,こうしたことは神Deusの能力potentiaに帰することができるのだから,そうした奇蹟を信じることが無智と同じ意味であるはずがないという主旨の主張をしています。
もうひとつは,神が人間の本性natura humanaを具有しているということをスピノザは否定しているけれども,それはなぜかというものです。ここでもオルデンブルクは聖書の文章を抽出し,神が人間の本性を具えているという意味をそれらの章句の中に見出し,それらの章句をスピノザはどう解するのかと質問しています。
スピノザの哲学と関連させていえば,前者の質問は神と自然Naturaはそれほど異なったものではなく,自然法則はいたるところで同一であるということと関連します。奇蹟を自然法則を超越したものと解するなら,自然のうちに奇蹟が生じる余地はないことになります。後者の質問は,神からの人格の排除と関連します。神を人間のようなものと考えるのは,人間に特有の考え方といわなければならないのであり,この意味での優越性を人間は有していないのです。
それではコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの中身を検討していきましょう。せっかくの機会なので,スピノザが死ぬ前日の記述からみていきます。
1677年2月22日,この日は土曜であったとコレルスJohannes Colerusは書いています。この日にスペイクは妻とふたりで教会に行き,牧師,というのはコレルスの前任者と思われますが,その牧師の予備の説教を聞きに行きました。帰宅したのは午後4時ごろで,コレルスが帰宅するとスピノザが自身の部屋から下りてきたとされています。スピノザの部屋のことをコレルスは表部屋の寝台と記述していますが,それが何を意味するかは僕にはよく分かりません。ただ,下りてきたといわれている以上,スピノザが間借りしていたのはスペイクの家の1階ではなかったということは確かでしょう。
下りてきたスピノザは煙草をふかし,しばらくの間スペイクと話をしました。その中には午後にあった牧師の説教の話もあったと書かれています。この牧師はコルデスという名前ですが,コルデスは博学の上に誠実であったから,スピノザの尊敬を受けていて,スピノザもたまに説教を聞きに行くこともあったとスペイクはいっていますので,それが本当であればこのときに説教の内容が話題となっても不思議ではありません。ただ,前もっていっておいたように,スペイクにはスピノザのことをコレルスによく思ってもらいたいという気持ちを持つ十分な理由があり,このエピソードはコレルスにそう思わせる内容を有していますから,すべてが本当のことであったということはできないかもしれません。ただこの日にスピノザがスペイクと何らかの話をしたということについては疑う必要はないのではないかと思います。
翌日は日曜だったのでルター教会では礼拝がありました。その礼拝にスペイクと妻が出かける前にスピノザはまた下りてきて,ふたりと話をしました。このときにスピノザはアムステルダムAmsterdamから医師を呼んでいて,この医師が年老いた鶏を調理してそのスープを昼食としてスピノザに摂らせるようにいいつけたので,スペイクはその通りにしたといっています。実際に調理したのは家人となっていますから,たぶんスペイクの妻だったでしょう。
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