8月31日に台場で指された第4期白玲戦七番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳白玲が33勝,福間香奈女流五冠が40勝。これはNHK杯の女流予選を含んだ成績です。
ヒューリックの会長による振駒で福間女流五冠が先手となり,中飛車。後手の西山白玲の向飛車で相振り飛車でしたが,先手が左玉にしましたので,対抗形に類似した将棋でした。
後手から仕掛けて桂損の代償に飛車を成り込みました。この辺りは後手がうまくやっていたのですが,先手の端攻めに対する応対を誤ったために逆転。先手が勝勢といっていい局面まで進みました。
厳密にいうとここまでの先手の攻め方にも危ういところがあったかもしれませんが,まだ先手の勝勢です。ここで☗7一馬と逃げておけば,後手から有効な反撃がないため先手の勝勢が続きました。
実戦は☗6六馬とこちらの馬を龍取りに引きました。このために☖7七香の勝負手を与えることに。
ここで反省して☗同馬☖5三歩ならまだ先手が残していたようです。ただ,馬を引いたのは☖7七香を軽視していたからで,そうであれば馬を捨てる順には進めにくかったのだと思います。よって☗同桂と取ったのですが,☖8九銀☗6八玉☖8八飛☗7八香☖6七歩☗同馬☖5三歩という手順で馬を取られ,逆転しました。
☖7七香と打たれた局面でも先手にチャンスはあったのですが,指し手の流れからはその手順には進めにくい要素がありましたので,☗6六馬が実質的な敗着であったと思います。
西山白玲が先勝。第二局は14日に指される予定です。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de SpinozaではアムステルダムAmsterdamから来た医師のことが,事実上はマイエルLodewijk Meyerとされていますから,ナドラーSteven Nadlerはこの医師がマイエルであったと解しています。ただ『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の記述は,確定的になっているわけではなく,この医師がシュラーGeorg Hermann Schullerであった可能性も示唆されています。これは,実際はこの医師がシュラーであったという説が,識者の間で流通しているからです。それは後にシュラーが,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに対してスピノザが死んだときに自身がい合わせたといっていること,およびライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して,スピノザの死の前後にスピノザの所持品を確認したと伝えていることに由来しています。スピノザの伝記としては古典の部類に入るといっていい『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』において,フロイデンタールJacob Freudenthalがすでにこの医師はシュラーであったということを確定的に書いています。
フロイデンタールは,そもそもスペイクのコレルスJohannes Colerusに対する報告が曖昧なものであって,GSというイニシャルにするべきところをLMとしたのだという意味のことをいっていますが,これは根拠が分かりません。コレルス自身はマイエルにもシュラーにも会ったことはない筈なので,イニシャルを意図的にであれ勘違いであれ書き換えるという必要性があるようには思えないからです。なので僕はスペイクがこの医師はマイエルであったとコレルスに伝え,しかしマイエルのなしたことに対するスペイクの話には信憑性を欠く要素があると判断したので,それをイニシャルで示したというように解します。これはつまり,アムステルダムから来たこの医師について,それはマイエルであったという認識をスペイクがもっていたと解釈するという意味です。
この解釈を採用した場合,もしも実際にこの医師がマイエルではなくシュラーであったという場合には,絶対的な条件が発生します。もしもスペイクがこの医師について,それはほかならぬマイエルであったと断定することができるのであれば,この医師は間違いなくマイエルであったというほかないのですから,シュラーであったとするには無理があります。つまりスペイクはほかの人物をマイエルと間違え得るのでなければなりません。
ヒューリックの会長による振駒で福間女流五冠が先手となり,中飛車。後手の西山白玲の向飛車で相振り飛車でしたが,先手が左玉にしましたので,対抗形に類似した将棋でした。
後手から仕掛けて桂損の代償に飛車を成り込みました。この辺りは後手がうまくやっていたのですが,先手の端攻めに対する応対を誤ったために逆転。先手が勝勢といっていい局面まで進みました。
厳密にいうとここまでの先手の攻め方にも危ういところがあったかもしれませんが,まだ先手の勝勢です。ここで☗7一馬と逃げておけば,後手から有効な反撃がないため先手の勝勢が続きました。
実戦は☗6六馬とこちらの馬を龍取りに引きました。このために☖7七香の勝負手を与えることに。
ここで反省して☗同馬☖5三歩ならまだ先手が残していたようです。ただ,馬を引いたのは☖7七香を軽視していたからで,そうであれば馬を捨てる順には進めにくかったのだと思います。よって☗同桂と取ったのですが,☖8九銀☗6八玉☖8八飛☗7八香☖6七歩☗同馬☖5三歩という手順で馬を取られ,逆転しました。
☖7七香と打たれた局面でも先手にチャンスはあったのですが,指し手の流れからはその手順には進めにくい要素がありましたので,☗6六馬が実質的な敗着であったと思います。
西山白玲が先勝。第二局は14日に指される予定です。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de SpinozaではアムステルダムAmsterdamから来た医師のことが,事実上はマイエルLodewijk Meyerとされていますから,ナドラーSteven Nadlerはこの医師がマイエルであったと解しています。ただ『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の記述は,確定的になっているわけではなく,この医師がシュラーGeorg Hermann Schullerであった可能性も示唆されています。これは,実際はこの医師がシュラーであったという説が,識者の間で流通しているからです。それは後にシュラーが,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに対してスピノザが死んだときに自身がい合わせたといっていること,およびライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して,スピノザの死の前後にスピノザの所持品を確認したと伝えていることに由来しています。スピノザの伝記としては古典の部類に入るといっていい『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』において,フロイデンタールJacob Freudenthalがすでにこの医師はシュラーであったということを確定的に書いています。
フロイデンタールは,そもそもスペイクのコレルスJohannes Colerusに対する報告が曖昧なものであって,GSというイニシャルにするべきところをLMとしたのだという意味のことをいっていますが,これは根拠が分かりません。コレルス自身はマイエルにもシュラーにも会ったことはない筈なので,イニシャルを意図的にであれ勘違いであれ書き換えるという必要性があるようには思えないからです。なので僕はスペイクがこの医師はマイエルであったとコレルスに伝え,しかしマイエルのなしたことに対するスペイクの話には信憑性を欠く要素があると判断したので,それをイニシャルで示したというように解します。これはつまり,アムステルダムから来たこの医師について,それはマイエルであったという認識をスペイクがもっていたと解釈するという意味です。
この解釈を採用した場合,もしも実際にこの医師がマイエルではなくシュラーであったという場合には,絶対的な条件が発生します。もしもスペイクがこの医師について,それはほかならぬマイエルであったと断定することができるのであれば,この医師は間違いなくマイエルであったというほかないのですから,シュラーであったとするには無理があります。つまりスペイクはほかの人物をマイエルと間違え得るのでなければなりません。