スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大成建設杯清麗戦&人間と国家

2024-08-07 18:59:54 | 将棋
 日光で指された昨日の第6期清麗戦五番勝負第三局。
 福間香奈清麗の先手で5筋位取り中飛車。後手の加藤桃子女流四段が向かい合った銀を交換しにいく将棋に。
                         
 ここで先手は☗4六歩と突いていきました。
 後手は☖2四角。先手は☗2五歩☖3五角☗3六銀と角を追い☖4六角☗同角☖同歩で角を交換。すぐに☗5五角と打ちました。
                         
 これで先手の駒得が確定したのですが,どうもその後の展開からするとそれで先手がかなり優勢になっているようです。なので後手はこの順に進めるのはまずく,☖2四角とか☖4六角のところで別の手段を用いなければならなかったということになると思います。
 福間清麗が勝って2勝1敗。第四局は20日に指される予定です。

 僕の方から指摘しておきたいことはこれだけですので,國分の考察に戻ってそちらを検討します。
 國分は,スピノザは人間を国家Imperiumに喩えること自体を批判しているといっていました。しかしもしそうであるなら,国家を人間に喩えることも同様に批判されなければならないといえるでしょう。もし人間を国家に喩えることが何らかの理由で批判されなければならないのであれば,それと同じ理由によって,国家を人間に喩えることも批判されなければならないであろうからです。
 一見するとこれは変に思われるかもしれません。というのも,スピノザ自身が国家を人間に喩えているように思えるからです。実際にスピノザは,国家をひとつの身体corpusのようなものとしてみて,その身体の精神mensが統治をするというようないい方をしているからです。これは国家を人間に喩えることそのものといえるように思えないでしょうか。
 ところが,スピノザの哲学的観点からはこれらが両立するのです。というのは,スピノザがいう精神というのは,個物res singularisの観念がideaその観念対象ideatumである個物と合一した形態のことをいうので,どのような個物にも精神があるということが結論されます。したがって国家をひとつの個物とみる限り,その国家にはその国家に独自の精神があって,その精神と合一した国家という個物を,その個物の身体とみることは可能なのです。
 したがって,こうしたことから帰結するのは,現実的に存在する人間に精神があるように,現実的に存在する国家にもその国家に独自の精神があるのですが,その国家の精神を人間の精神に喩えることはできないし,逆に人間の精神を国家の精神に喩えることはできないということです。たとえば現実的に存在する人間は,常に理性ratioに従って行動するということはありません。それと同様に,国家が常に理性的に統治されるということもありません。しかし理性的であるということがどういうことであるのかということは人間と国家で一致するわけではありません。当然ながら理性的でないという状態も一致しません。人間のことは人間の論理で考えられなければならないように,国家は国家の論理で考えられなければならないのです。

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