⑱-4で示した疑問に順に答えていきます。まず,その第1図ですぐに☗2七銀と受けてはいけない理由からです。
⑱-4の第1図で☗2七銀と打つと下図になります。
この図は後手から☖3六歩と打つ手があります。☗同銀と取ると後手は☖3八金と打つことができるようになります。これは後手の勝ちです。
なので先手は☖3六歩には角が逃げることになります。☗5五角が最も自然な手ですが,これが後手玉に対する詰めろになっていません。よって☖3七銀と打ってこれも後手が勝つのです。
つまり先手は第1図の形で☖3六歩と打たれないようにしておかなければなりません。なので⑱-4の第1図ではまず☗2一飛と詰めろで飛車を打ち,☖3一歩と受けさせてから☗2七銀と受けに回る必要があるのです。これが⑱-4の第2図ですが,これなら後手からの☖3六歩が二歩のため打てません。つまり☗2一飛というのは,それ自体では詰めろなのですが,実際は後手玉を攻める手であるというよりは,☖3一歩と打たせて☖3六歩を打たせないようにするための受けの手という意味合いが強いのです。
スピノザはホッブズThomas Hobbesと逆に,自然状態status naturalisでは人間には自然権jus naturaeはない,自然権を行使することがほとんど不可能で,社会状態になると共同の意志voluntasに基づいて自然権を有するようになる,自然権を行使できるようになると考えています。したがって,ホッブズもスピノザも,自然状態は人間にとってよからぬ状態で,社会societasは人間にとってよき状態であると解している点では一致しているのですが,ホッブズの場合,自然状態では各人が自然権を思うがままに行使するがゆえに悪しき状態であるのに対し,スピノザの場合は,自然状態が悪しき状態である理由は,各人が自然権を行使することがほとんど不可能であるがゆえなのです。つまり自然状態が悪しき状態で社会がよい状態であるという点ではスピノザもホッブズも一致するのですが,自然権がそれに対してどのような影響を与えるのかということについては,真逆の見解opinioを有していることになります。
この見解の相違についてはここでは詳しくは探求しません。スピノザとホッブズの政治理論の相違を探求する場ではないからです。ここでは,スピノザが社会をよき状態であると解するときに,それは人間が自然権を行使することができるようになるからだという点に注目します。浅野は,もしも三木がスピノザの政治理論に従えば,国家的なものが発生する手前にある社会的地平に目を凝らすということができたであろう,よって,社会の側から国家Imperiumの問題性を照射する道が開かれていたであろうという意味のことをいっていましたが,それはまさにこの点と関連しているのです。
三木は,スピノザは社会という概念notioと国家という概念を区別していないといっていました。それは正しいのだと僕は考えています。スピノザがいうよき状態,つまり社会状態は,社会でもあり国家でもあると考えることができるのであって,共同の意志に基づいて人間が自然権を行使できる状態というのは,社会と呼ばれようと国家と呼ばれようと関係ないからです。一方で,浅野は社会的地平というのが国家的なものが発生する以前の状態としてあるというように仮定しているので,これだとスピノザは国家と社会を分けているかのようにみえます。
⑱-4の第1図で☗2七銀と打つと下図になります。
この図は後手から☖3六歩と打つ手があります。☗同銀と取ると後手は☖3八金と打つことができるようになります。これは後手の勝ちです。
なので先手は☖3六歩には角が逃げることになります。☗5五角が最も自然な手ですが,これが後手玉に対する詰めろになっていません。よって☖3七銀と打ってこれも後手が勝つのです。
つまり先手は第1図の形で☖3六歩と打たれないようにしておかなければなりません。なので⑱-4の第1図ではまず☗2一飛と詰めろで飛車を打ち,☖3一歩と受けさせてから☗2七銀と受けに回る必要があるのです。これが⑱-4の第2図ですが,これなら後手からの☖3六歩が二歩のため打てません。つまり☗2一飛というのは,それ自体では詰めろなのですが,実際は後手玉を攻める手であるというよりは,☖3一歩と打たせて☖3六歩を打たせないようにするための受けの手という意味合いが強いのです。
スピノザはホッブズThomas Hobbesと逆に,自然状態status naturalisでは人間には自然権jus naturaeはない,自然権を行使することがほとんど不可能で,社会状態になると共同の意志voluntasに基づいて自然権を有するようになる,自然権を行使できるようになると考えています。したがって,ホッブズもスピノザも,自然状態は人間にとってよからぬ状態で,社会societasは人間にとってよき状態であると解している点では一致しているのですが,ホッブズの場合,自然状態では各人が自然権を思うがままに行使するがゆえに悪しき状態であるのに対し,スピノザの場合は,自然状態が悪しき状態である理由は,各人が自然権を行使することがほとんど不可能であるがゆえなのです。つまり自然状態が悪しき状態で社会がよい状態であるという点ではスピノザもホッブズも一致するのですが,自然権がそれに対してどのような影響を与えるのかということについては,真逆の見解opinioを有していることになります。
この見解の相違についてはここでは詳しくは探求しません。スピノザとホッブズの政治理論の相違を探求する場ではないからです。ここでは,スピノザが社会をよき状態であると解するときに,それは人間が自然権を行使することができるようになるからだという点に注目します。浅野は,もしも三木がスピノザの政治理論に従えば,国家的なものが発生する手前にある社会的地平に目を凝らすということができたであろう,よって,社会の側から国家Imperiumの問題性を照射する道が開かれていたであろうという意味のことをいっていましたが,それはまさにこの点と関連しているのです。
三木は,スピノザは社会という概念notioと国家という概念を区別していないといっていました。それは正しいのだと僕は考えています。スピノザがいうよき状態,つまり社会状態は,社会でもあり国家でもあると考えることができるのであって,共同の意志に基づいて人間が自然権を行使できる状態というのは,社会と呼ばれようと国家と呼ばれようと関係ないからです。一方で,浅野は社会的地平というのが国家的なものが発生する以前の状態としてあるというように仮定しているので,これだとスピノザは国家と社会を分けているかのようにみえます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます