中島みゆきの楽曲の中で,僕が最も数多く聴いたのは,たぶん「肩に降る雨」だと思います。

肩に降る雨の冷たさも気づかぬまま歩き続けてた
肩に降る雨の冷たさにまだ生きてた自分を見つけた
多くの詩あるいは詞において,雨というのが,たとえば人の冷たさといわれる場合のような冷たさのアナロジーを形成することは,とくに説明する必要がないでしょう。ましてこの曲の場合には,わざわざ雨の冷たさと表現されているのですから,この雨がそうしたことを象徴するということは,明らかだといえます。
この曲の主人公は,そうした冷たささえ気付かないまま生きていたわけです。そしてある瞬間,その冷たさに気付き,そのことによって自分が生きていたということにも気付きます。要するに自分が生きているということさえ気付かずに生きていたのだということになります。そういう人間にとって,確かに冷たさではあったとしても,それが自分が生きているということの強い証となるのでしょう。
肩に降る雨の冷たさは生きろと叫ぶ誰かの声
肩に降る雨の冷たさは生きたいと迷う自分の声
冷たさは自分を奮い立たせ得る何かです。そして冷たさを感受するということは,生への執着の証明なのです。
僕は精神状態の回復のために中島みゆきを聴くのですが,この曲はどんな原因で精神的に落ち込んだとしても,僕には効力を発揮します。僕にとっては普遍的な名曲だといえるでしょう。
ある観念を,現実的に存在する人間の精神とだけ関連させます。その上で,その観念に関して,次のような命題を立ててみます。ある観念をその内的特徴からみた場合,それが混乱した観念でないならば,十全な観念である。こうして立てられた命題が,真の命題であるということは,これ以上の説明は不要でしょう。
そしてこれを単にこの命題だけで考えようとするならば,まず,XはAでないならばYであるという命題のひとつの具体例になっていることは明らかです。念のために説明しておけば,Xに該当するのが観念,あるいは内的特徴からみられた観念であり,Aに該当するのは混乱した観念であり,Yに該当するのが十全な観念です。そしてこの命題は,明らかに内的特徴からみられた観念に関して,それが混乱した観念ではないということを意味として含んでいます。いい換えれば,混乱した観念によって限定されているのです。そして限定と否定の関係からして,すべての限定は否定であると解さなければならないのですから,それは混乱した観念によって否定されているということになります。したがってこの命題は,内的特徴からみられた観念に関して,積極的であるといえるような要素を構成することはないと結論しなければなりません。なお,同じことは,AとYを入れ替えた命題,すなわちある観念が内的特徴からみられる限り,十全な観念でないなら混乱した観念であるという命題の場合にも妥当します。
今は,実際にこの命題が積極的であるといえるのかどうかという点に関しては考慮しません。これはつまり,現時点ではこの命題に関しては,内的特徴からみられる観念について,積極的であるかもしれないし,積極的ではないかもしれないという立場から考えるという意味です。そしてこの立場から考えたときに,僕がまず思うことは,確かにこの命題が,観念について積極的であるとはいえないかもしれないけれども,少なくともそのことの根拠は,ある観念が混乱した観念によって限定されているということのうちにはあり得ないのではないかということなのです。
僕がそのように思う最大の根拠は,十全な観念と混乱した観念の関係です。

肩に降る雨の冷たさも気づかぬまま歩き続けてた
肩に降る雨の冷たさにまだ生きてた自分を見つけた
多くの詩あるいは詞において,雨というのが,たとえば人の冷たさといわれる場合のような冷たさのアナロジーを形成することは,とくに説明する必要がないでしょう。ましてこの曲の場合には,わざわざ雨の冷たさと表現されているのですから,この雨がそうしたことを象徴するということは,明らかだといえます。
この曲の主人公は,そうした冷たささえ気付かないまま生きていたわけです。そしてある瞬間,その冷たさに気付き,そのことによって自分が生きていたということにも気付きます。要するに自分が生きているということさえ気付かずに生きていたのだということになります。そういう人間にとって,確かに冷たさではあったとしても,それが自分が生きているということの強い証となるのでしょう。
肩に降る雨の冷たさは生きろと叫ぶ誰かの声
肩に降る雨の冷たさは生きたいと迷う自分の声
冷たさは自分を奮い立たせ得る何かです。そして冷たさを感受するということは,生への執着の証明なのです。
僕は精神状態の回復のために中島みゆきを聴くのですが,この曲はどんな原因で精神的に落ち込んだとしても,僕には効力を発揮します。僕にとっては普遍的な名曲だといえるでしょう。
ある観念を,現実的に存在する人間の精神とだけ関連させます。その上で,その観念に関して,次のような命題を立ててみます。ある観念をその内的特徴からみた場合,それが混乱した観念でないならば,十全な観念である。こうして立てられた命題が,真の命題であるということは,これ以上の説明は不要でしょう。
そしてこれを単にこの命題だけで考えようとするならば,まず,XはAでないならばYであるという命題のひとつの具体例になっていることは明らかです。念のために説明しておけば,Xに該当するのが観念,あるいは内的特徴からみられた観念であり,Aに該当するのは混乱した観念であり,Yに該当するのが十全な観念です。そしてこの命題は,明らかに内的特徴からみられた観念に関して,それが混乱した観念ではないということを意味として含んでいます。いい換えれば,混乱した観念によって限定されているのです。そして限定と否定の関係からして,すべての限定は否定であると解さなければならないのですから,それは混乱した観念によって否定されているということになります。したがってこの命題は,内的特徴からみられた観念に関して,積極的であるといえるような要素を構成することはないと結論しなければなりません。なお,同じことは,AとYを入れ替えた命題,すなわちある観念が内的特徴からみられる限り,十全な観念でないなら混乱した観念であるという命題の場合にも妥当します。
今は,実際にこの命題が積極的であるといえるのかどうかという点に関しては考慮しません。これはつまり,現時点ではこの命題に関しては,内的特徴からみられる観念について,積極的であるかもしれないし,積極的ではないかもしれないという立場から考えるという意味です。そしてこの立場から考えたときに,僕がまず思うことは,確かにこの命題が,観念について積極的であるとはいえないかもしれないけれども,少なくともそのことの根拠は,ある観念が混乱した観念によって限定されているということのうちにはあり得ないのではないかということなのです。
僕がそのように思う最大の根拠は,十全な観念と混乱した観念の関係です。
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