アジャ・コングはブル・中野がリーダーだった獄門党を抜けてジャングルジャックというチームを結成しました。この当時,獄門党の一員だったのが井上京子です。井上はブルやアジャよりは後輩にあたりますから,その当時は必ずしも中心的存在だったわけではありません。
井上は小さい頃からプロレスラーになりたかったそうです。ただ彼女の出生地である山形ではプロレスの放送がありませんでした。なので実際に入団したときには,先輩のこともあまりよく知らなかったそうです。入団してから,つまり上京してからは男女の区別なくプロレスを見るようになりました。したがって「プロレスか女子プロレスか」という区分ではプロレス派に属します。アジャは生粋のプロレス派で,ブルも同様でしたが,ブルは他団体のプロレスを見るという習慣がなかったそうで,ブルとアジャが抗争を繰り広げていた頃は,このようにやった方がいいということを井上がブルに助言することがあったそうです。したがってアジャや井上からみると,ブルは女子プロレス派に近いようなプロレス派だったのではないでしょうか。
セメントは強かったようです。ただ面白いのは本人にはあまりそういう自覚はなかったこと。先輩にも当たるのは嫌だったと言われるくらい強かったようで,そう言われて自分は強かったのだということに気付いたそうです。
井上は対抗戦にはあまり乗り気ではありませんでした。そのためにこの時代は主流に乗れなかったそうです。この対抗戦時代に最も光ったレスラーのひとりが北斗晶ですが,井上は北斗にはまったく興味はなかったし,一緒にやっていきたいと思うようなレスラーでもなかったそうです。また,僕の女子プロレスキャリアの中で,ライブでも観戦するようになった契機である豊田真奈美は井上より1年先輩で,井上の中ではトップクラスの選手に入っていたそうですが,分かり合えるような選手ではなかったとのこと。また,豊田は経営陣の松永兄弟から可愛がられていて,自分はそうではなかったという思いも井上の中にはあるそうです。
神Deusがなぜ永遠aeterunusから永遠に渡って存在するのかという問いが,因果性の原理に基づく問いであることは明白でしょう。そしてこの問いを神に対して向けることは,何ら不条理ではないといえます。したがって,アルノーAntoine Amauldが主張していること,すなわち因果性の原理を神に適用することは不適切であるということについて,スピノザが同意することはありません。
アルノーがこの例を用いて,因果性の原理を神に適用することは不可能だといっているのがなぜかを考えなければなりません。というのも,神が永遠から永遠に渡って存在するという点についてはアルノーは同意する筈なのに,こうした問いを神に向けることについては,アルノーはまったく注意を向けていないように思えるからです。もちろん,アルノーの第四論駁は『省察Meditationes de prima philosophia』に対する論駁ですから,アルノーがそれに注意を向けていないのではなく,デカルトRené Descartesが『省察』の中でそのことに注目していないという可能性はありますし,アルノー自身がデカルトの主張をそのように解したという可能性もあります。ですが,神が永遠であるということには同意する筈のアルノーが,それを神に対して問うことについて何も着目しないというのは僕には不思議に感じられるのです。
これを合理的に解釈するためには,アルノーが永遠と持続duratioを,スピノザと同じ仕方によっては解していないからだとするのが最もよいように僕には思えるのです。第一部定義八説明では,たとえその始まりも終わりもないものと仮定したとしても,持続によっては説明され得ないとしているのですが,アルノーが解している永遠というのは,この種の永遠,すなわちスピノザの哲学に則して解するなら,永続的な持続のことだったのではないでしょうか。もしそのように解するなら,神はなぜ自身の存在existentiaを維持するのかという問いと,神はなぜ永遠から永遠に渡って存在するのかという問いは同じ意味になるからです。そして持続は時間tempusを確実に含んでいるので,この問いは以前と以後,あるいは過去と未来を含むことになります。つまり,アルノーは,永遠の中にも以前と以後,そして過去と未来が含まれていると解しているのではないでしょうか。
井上は小さい頃からプロレスラーになりたかったそうです。ただ彼女の出生地である山形ではプロレスの放送がありませんでした。なので実際に入団したときには,先輩のこともあまりよく知らなかったそうです。入団してから,つまり上京してからは男女の区別なくプロレスを見るようになりました。したがって「プロレスか女子プロレスか」という区分ではプロレス派に属します。アジャは生粋のプロレス派で,ブルも同様でしたが,ブルは他団体のプロレスを見るという習慣がなかったそうで,ブルとアジャが抗争を繰り広げていた頃は,このようにやった方がいいということを井上がブルに助言することがあったそうです。したがってアジャや井上からみると,ブルは女子プロレス派に近いようなプロレス派だったのではないでしょうか。
セメントは強かったようです。ただ面白いのは本人にはあまりそういう自覚はなかったこと。先輩にも当たるのは嫌だったと言われるくらい強かったようで,そう言われて自分は強かったのだということに気付いたそうです。
井上は対抗戦にはあまり乗り気ではありませんでした。そのためにこの時代は主流に乗れなかったそうです。この対抗戦時代に最も光ったレスラーのひとりが北斗晶ですが,井上は北斗にはまったく興味はなかったし,一緒にやっていきたいと思うようなレスラーでもなかったそうです。また,僕の女子プロレスキャリアの中で,ライブでも観戦するようになった契機である豊田真奈美は井上より1年先輩で,井上の中ではトップクラスの選手に入っていたそうですが,分かり合えるような選手ではなかったとのこと。また,豊田は経営陣の松永兄弟から可愛がられていて,自分はそうではなかったという思いも井上の中にはあるそうです。
神Deusがなぜ永遠aeterunusから永遠に渡って存在するのかという問いが,因果性の原理に基づく問いであることは明白でしょう。そしてこの問いを神に対して向けることは,何ら不条理ではないといえます。したがって,アルノーAntoine Amauldが主張していること,すなわち因果性の原理を神に適用することは不適切であるということについて,スピノザが同意することはありません。
アルノーがこの例を用いて,因果性の原理を神に適用することは不可能だといっているのがなぜかを考えなければなりません。というのも,神が永遠から永遠に渡って存在するという点についてはアルノーは同意する筈なのに,こうした問いを神に向けることについては,アルノーはまったく注意を向けていないように思えるからです。もちろん,アルノーの第四論駁は『省察Meditationes de prima philosophia』に対する論駁ですから,アルノーがそれに注意を向けていないのではなく,デカルトRené Descartesが『省察』の中でそのことに注目していないという可能性はありますし,アルノー自身がデカルトの主張をそのように解したという可能性もあります。ですが,神が永遠であるということには同意する筈のアルノーが,それを神に対して問うことについて何も着目しないというのは僕には不思議に感じられるのです。
これを合理的に解釈するためには,アルノーが永遠と持続duratioを,スピノザと同じ仕方によっては解していないからだとするのが最もよいように僕には思えるのです。第一部定義八説明では,たとえその始まりも終わりもないものと仮定したとしても,持続によっては説明され得ないとしているのですが,アルノーが解している永遠というのは,この種の永遠,すなわちスピノザの哲学に則して解するなら,永続的な持続のことだったのではないでしょうか。もしそのように解するなら,神はなぜ自身の存在existentiaを維持するのかという問いと,神はなぜ永遠から永遠に渡って存在するのかという問いは同じ意味になるからです。そして持続は時間tempusを確実に含んでいるので,この問いは以前と以後,あるいは過去と未来を含むことになります。つまり,アルノーは,永遠の中にも以前と以後,そして過去と未来が含まれていると解しているのではないでしょうか。
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