河津桜で有名な静岡県河津町で指された第61期王将戦七番勝負第五局。
佐藤康光九段の先手でしたので久保利明王将はごきげん中飛車に。この将棋も③☗4八銀。後手が角頭を放棄して美濃囲いに組むことを優先したので,先手がその銀を進出させ,2筋突破を図る将棋になりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/c8/adb3899d40122f671e73a70ab563717d.png)
これが封じ手の局面で,☖3一金も検討されていたとのことですが,僕には実戦の☖3三銀の一手のように思えました。先手は☗2八飛と逃げ,☖2七歩☗同飛☖2六歩☗同飛☖2五歩の連打。そこで☗3三成銀と取りました。対して☖同桂もないことはないと思いますが,わざわざ連打したのですから☖2六歩と取るのは普通でしょう。☗3ニ成銀はこの一手。☖2八飛の王手に☗6八金上で受け,後手は☖2九飛成と取って,駒割はほぼ互角になりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/8f/184d6ae03cc5d3ede524ef81b0cbae3c.png)
ここで☗4二銀と打っていった局面は午前中に観たのですが,深く読む時間はなかったもののこれは先手がやれる変化になっているのではないかと思いました。実際にそうであったようで,この後,6筋からかなり手厚く攻めた先手が後手をほぼ圧倒しています。
4勝1敗で佐藤康光九段が新王将に。谷川九段の理事就任に伴い,棋士会長となり,かなり忙しいようですが,その中でのタイトル獲得は立派だと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/c6/b622df9f7d9196945cb7ae144e64aecb.jpg)
第二部定理四四にはふたつの系Corollariumがついています。ここでは第二部定理四四系二の方を援用します。
「物をある永遠の相のもとに知覚することは理性の本性に属する(De natura Rationis est res sub quadam aeternitatis specie percipere.)」。
理性Rationisによる事物の認識cognitioは第二種の認識cognitio secundi generisであり,これは第二部定義三説明における概念conceptusでなければならず,知覚percipio,perceptioではありません。したがってそもそもある知覚が理性の本性natura Rationisに属するということ自体が,スピノザの哲学においては本当は不条理であると僕は思います。したがってここは知覚するpercipereではなく概念するconcipereといわれなければならない筈です。これはおそらくスピノザの用語の使用法のルーズさがもたらしたものと思われますので,ここではこの知覚するというのを,広く認識するcognoscereという意味で把握することにし,これ以上は問題とはしません。ただ,前回の考察で指摘したように,共通概念notiones communesの認識というのは,概念であるとも知覚であるとも,いい換えれば精神の能動actio Mentisであるとも精神の受動passioであるとも解釈すること自体は可能であるような認識ではあります。したがってこのこともまた,マシュレPierre Machereyと僕との懸隔の一因となっていると考えることはできるでしょう。いずれにしても僕自身はこれを人間の精神の能動と考えているという点は注意しておいてください。
この定理Propositioでいわれている「永遠の相aeternitatis specie」というのが,スピノザの哲学における特別のことばであるということ,あるいはある意味においてはスピノザの哲学を代表するようなことばのひとつであるということは,かつて示した通りです。このうち,相と訳されている部分は,ラテン語ではspecieとなっていて,spesiesというのは相とか観点といったように訳されることばのようです。ようですというのは,僕にはラテン語の知識がほとんどありませんから,岩波文庫版の訳者である畠中尚志の訳注からの受け売りです。しかし,その訳注によれば,これをもっと別のことば,具体的にいえば種類ということばに訳すべきであるという説を主張した学者がいて,議論となったようです。詳しいことはその訳注に書かれていますからそこをお読みください。僕は畠中尚志に従い,あくまでもこれを観点という立場で理解します。
佐藤康光九段の先手でしたので久保利明王将はごきげん中飛車に。この将棋も③☗4八銀。後手が角頭を放棄して美濃囲いに組むことを優先したので,先手がその銀を進出させ,2筋突破を図る将棋になりました。
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これが封じ手の局面で,☖3一金も検討されていたとのことですが,僕には実戦の☖3三銀の一手のように思えました。先手は☗2八飛と逃げ,☖2七歩☗同飛☖2六歩☗同飛☖2五歩の連打。そこで☗3三成銀と取りました。対して☖同桂もないことはないと思いますが,わざわざ連打したのですから☖2六歩と取るのは普通でしょう。☗3ニ成銀はこの一手。☖2八飛の王手に☗6八金上で受け,後手は☖2九飛成と取って,駒割はほぼ互角になりました。
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ここで☗4二銀と打っていった局面は午前中に観たのですが,深く読む時間はなかったもののこれは先手がやれる変化になっているのではないかと思いました。実際にそうであったようで,この後,6筋からかなり手厚く攻めた先手が後手をほぼ圧倒しています。
4勝1敗で佐藤康光九段が新王将に。谷川九段の理事就任に伴い,棋士会長となり,かなり忙しいようですが,その中でのタイトル獲得は立派だと思います。
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第二部定理四四にはふたつの系Corollariumがついています。ここでは第二部定理四四系二の方を援用します。
「物をある永遠の相のもとに知覚することは理性の本性に属する(De natura Rationis est res sub quadam aeternitatis specie percipere.)」。
理性Rationisによる事物の認識cognitioは第二種の認識cognitio secundi generisであり,これは第二部定義三説明における概念conceptusでなければならず,知覚percipio,perceptioではありません。したがってそもそもある知覚が理性の本性natura Rationisに属するということ自体が,スピノザの哲学においては本当は不条理であると僕は思います。したがってここは知覚するpercipereではなく概念するconcipereといわれなければならない筈です。これはおそらくスピノザの用語の使用法のルーズさがもたらしたものと思われますので,ここではこの知覚するというのを,広く認識するcognoscereという意味で把握することにし,これ以上は問題とはしません。ただ,前回の考察で指摘したように,共通概念notiones communesの認識というのは,概念であるとも知覚であるとも,いい換えれば精神の能動actio Mentisであるとも精神の受動passioであるとも解釈すること自体は可能であるような認識ではあります。したがってこのこともまた,マシュレPierre Machereyと僕との懸隔の一因となっていると考えることはできるでしょう。いずれにしても僕自身はこれを人間の精神の能動と考えているという点は注意しておいてください。
この定理Propositioでいわれている「永遠の相aeternitatis specie」というのが,スピノザの哲学における特別のことばであるということ,あるいはある意味においてはスピノザの哲学を代表するようなことばのひとつであるということは,かつて示した通りです。このうち,相と訳されている部分は,ラテン語ではspecieとなっていて,spesiesというのは相とか観点といったように訳されることばのようです。ようですというのは,僕にはラテン語の知識がほとんどありませんから,岩波文庫版の訳者である畠中尚志の訳注からの受け売りです。しかし,その訳注によれば,これをもっと別のことば,具体的にいえば種類ということばに訳すべきであるという説を主張した学者がいて,議論となったようです。詳しいことはその訳注に書かれていますからそこをお読みください。僕は畠中尚志に従い,あくまでもこれを観点という立場で理解します。
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