岩室温泉で指された昨日の第95期棋聖戦五番勝負第二局。
藤井聡太棋聖の先手で山崎隆之八段のノーマル向飛車。玉が薄い後手から桂馬をぶつけていったのですが,やや無理な動きで先手がリードしたようです。
後手が角を打った局面。ここで先手は18分考えて☗5五歩と突きました。
☖同歩と取ってしまうと☗3五飛と走られたときの☖4六角が消えてしまうので☖同角。
そこで先手は☗5六金と角取りに金を上がりました。
角を逃げてしまえばやはり☖4六角とできなくなってしまうので☖7七角成☗同桂☖4七銀は必然の進行。これで先手がまずいようなのですが☗5五桂と歩の頭に打つ手がありました。
飛車か金を取ってしまうと☗4三桂成☖同金☗3二角の切り返しがあります。よって☖同歩ですが☗同金。これでどう指しても次の☗6四歩が厳しく,先手の技が決まりました。
藤井棋聖が勝って連勝。第三局は来月1日に指される予定です。
この部分の考察はこれで終わりとして,次に移ります。
『スピノザー読む人の肖像』の第5章で,法lexと権利jusの概念notioに関する言及があります。これは有益なのでここでも説明しておきます。
スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の第四章で,法という概念をふたつに分類しています。ひとつは自然Naturaの必然性necessitasによる法で,もうひとつが人びとの合意による法です。そしてこの分類をした直後にスピノザは,後者すなわち人びとの合意による法は,法というより権利といわれるべきであるという意味のことをいっています。國分はこの分類に関して,前者は物事や人間の本性natura humanaに基づく法則を意味するから,僕たちはそれに従わないということが不可能であるけれど,後者は僕たちをある生活様式に縛り付けている約束事にすぎないので,僕たちはそれに従わないことも可能であるといっています。これはスピノザの分類を分かりやすく理解できるようにした適切な説明であると思います。ただスピノザが後者を権利といわれるべきであるといっていることについては,日本語における理解という観点からの疑問を呈しています。
通常の日本語では,権利というのは何らかの自由libertasに関する許可や資格のことを意味するのであって,法というのはその権利を保証するものです。なので,法そのものを権利というのには違和感があるでしょう。実際に僕たちの生活様式を縛り付けている約束事は法であって,その約束事の中で許容されているのが権利というのが日本語の意味ですから,僕たちがスピノザのこの主張に違和感を抱くのは当然といってもいいでしょう。
実際にはこれは日本語で理解するからこのようになるのであって,英語やフランス語,ドイツ語などでは現代でも権利を意味する語の中に法という意味も含まれています。しかしこれはこれで逆に,なぜ同じひとつの語が法という意味と権利という意味のふたつをもち得るのかという疑問を,少なくとも日本語的な用法に慣れている場合には疑問としてもつことができるでしょう。
國分のこの部分の考察は,こうした疑問に答えることを意図しています。つまりここでは,法と権利の関係をどう理解するべきかが考察されています。
藤井聡太棋聖の先手で山崎隆之八段のノーマル向飛車。玉が薄い後手から桂馬をぶつけていったのですが,やや無理な動きで先手がリードしたようです。
後手が角を打った局面。ここで先手は18分考えて☗5五歩と突きました。
☖同歩と取ってしまうと☗3五飛と走られたときの☖4六角が消えてしまうので☖同角。
そこで先手は☗5六金と角取りに金を上がりました。
角を逃げてしまえばやはり☖4六角とできなくなってしまうので☖7七角成☗同桂☖4七銀は必然の進行。これで先手がまずいようなのですが☗5五桂と歩の頭に打つ手がありました。
飛車か金を取ってしまうと☗4三桂成☖同金☗3二角の切り返しがあります。よって☖同歩ですが☗同金。これでどう指しても次の☗6四歩が厳しく,先手の技が決まりました。
藤井棋聖が勝って連勝。第三局は来月1日に指される予定です。
この部分の考察はこれで終わりとして,次に移ります。
『スピノザー読む人の肖像』の第5章で,法lexと権利jusの概念notioに関する言及があります。これは有益なのでここでも説明しておきます。
スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の第四章で,法という概念をふたつに分類しています。ひとつは自然Naturaの必然性necessitasによる法で,もうひとつが人びとの合意による法です。そしてこの分類をした直後にスピノザは,後者すなわち人びとの合意による法は,法というより権利といわれるべきであるという意味のことをいっています。國分はこの分類に関して,前者は物事や人間の本性natura humanaに基づく法則を意味するから,僕たちはそれに従わないということが不可能であるけれど,後者は僕たちをある生活様式に縛り付けている約束事にすぎないので,僕たちはそれに従わないことも可能であるといっています。これはスピノザの分類を分かりやすく理解できるようにした適切な説明であると思います。ただスピノザが後者を権利といわれるべきであるといっていることについては,日本語における理解という観点からの疑問を呈しています。
通常の日本語では,権利というのは何らかの自由libertasに関する許可や資格のことを意味するのであって,法というのはその権利を保証するものです。なので,法そのものを権利というのには違和感があるでしょう。実際に僕たちの生活様式を縛り付けている約束事は法であって,その約束事の中で許容されているのが権利というのが日本語の意味ですから,僕たちがスピノザのこの主張に違和感を抱くのは当然といってもいいでしょう。
実際にはこれは日本語で理解するからこのようになるのであって,英語やフランス語,ドイツ語などでは現代でも権利を意味する語の中に法という意味も含まれています。しかしこれはこれで逆に,なぜ同じひとつの語が法という意味と権利という意味のふたつをもち得るのかという疑問を,少なくとも日本語的な用法に慣れている場合には疑問としてもつことができるでしょう。
國分のこの部分の考察は,こうした疑問に答えることを意図しています。つまりここでは,法と権利の関係をどう理解するべきかが考察されています。
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