22日に指された第72期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は羽生善治九段が8勝,永瀬拓矢九段が15勝。千日手が1局あります。
振駒で羽生九段の先手となり,永瀬九段の雁木。後手が居玉の段階で先手から仕掛けていきましたが,先手玉も薄かったので,全体的には先手の方が指しにくい将棋で進んでいたように思います。

後手が☗9五角を防いだところ。ここで☗3七歩と成桂を取りました。
手番を得た後手は☖2九飛と打ち☗7九桂の受けに☖2八飛成と取り返しました。
そこで先手は☗8五銀と打ったのですが,☖同飛☗同歩☖8六銀と打たれました。

第2図は先手玉が寄り筋に入っています。第1図ですぐに☗8五銀と打つとこの筋がないので後手は☖8一飛と逃げます。それでは勝てないということで実戦の手順を先手は選んだようですが,後手玉を攻めていく途中で☗3七歩と成桂を取る順もあるので,実戦のように簡単には終わらなかったように思えます。
永瀬九段が勝って挑戦者に。内容では押しながらタイトルを奪われた前期のリターンマッチに。第一局は9月4日に指される予定です。
第四部定理一八備考でいわれていることと,第四部定理三七でいわれていることは,矛盾するのではないかという疑問をもつ人がいるかもしれませんから,このことについて説明しておきます。
第四部定理一八備考は,自分のために欲求しないことを他人に対しても欲求しないとはいわれずに,他人に対して欲求しないことを自分に対しても欲求しないといっています。ただし,事象としてみたらこのふたつは同じことです。何を自分に対して欲求しまた他人に対して欲求するかということの中身は,どちらのいい方をしても変わるところはないからです。ここの部分は各人は自己の利益suum utilisを求めるべきであるということが,不徳の基礎ではなく徳virtusの基礎であるということを説明しようとしているので,他人のために欲求しないことを自分に対しても欲求しないといわれているまでです。したがって,他人に対して欲求しないことを自分に対しても欲求するなという命題は,この備考Scholiumの中においては,一種の道徳的命令としての機能をもつことになります。
第四部定理三七は,自分のために欲求する善bonumを他人にも欲求するといっています。ただしこれはこの定理Propositioの文言から分かるように,その人間が有徳的であるということが前提されています。なので,自分のために欲求することを他人のためにも欲求せよという命題が,道徳的命令としてこの定理に中に含まれているわけではありません。むしろ有徳的であるなら,自分のために欲求する善を他人に対しても欲求するのは必然的帰結であるという,一種の事実命題が含まれているだけです。僕が事前にいっておいたことと関連させれば,徳の規準は自分自身にあって,自分自身が有徳的でありさえすればそのコナトゥスconatusはやはり有徳的である人間のコナトゥスと一致するということが必然的にnecessario帰結されるというのと同じです。
そしてこれが必然的な帰結なので,この帰結から逸れていくならそれは悪malumといわれるのです。このために,憎しみodiumによって他人を殴打することが悪といわれることになります。ただこのことは,殴打という身体的行動にのみ的を絞っていますから,國分によるものとは別の説明も可能だと僕は考えています。
振駒で羽生九段の先手となり,永瀬九段の雁木。後手が居玉の段階で先手から仕掛けていきましたが,先手玉も薄かったので,全体的には先手の方が指しにくい将棋で進んでいたように思います。

後手が☗9五角を防いだところ。ここで☗3七歩と成桂を取りました。
手番を得た後手は☖2九飛と打ち☗7九桂の受けに☖2八飛成と取り返しました。
そこで先手は☗8五銀と打ったのですが,☖同飛☗同歩☖8六銀と打たれました。

第2図は先手玉が寄り筋に入っています。第1図ですぐに☗8五銀と打つとこの筋がないので後手は☖8一飛と逃げます。それでは勝てないということで実戦の手順を先手は選んだようですが,後手玉を攻めていく途中で☗3七歩と成桂を取る順もあるので,実戦のように簡単には終わらなかったように思えます。
永瀬九段が勝って挑戦者に。内容では押しながらタイトルを奪われた前期のリターンマッチに。第一局は9月4日に指される予定です。
第四部定理一八備考でいわれていることと,第四部定理三七でいわれていることは,矛盾するのではないかという疑問をもつ人がいるかもしれませんから,このことについて説明しておきます。
第四部定理一八備考は,自分のために欲求しないことを他人に対しても欲求しないとはいわれずに,他人に対して欲求しないことを自分に対しても欲求しないといっています。ただし,事象としてみたらこのふたつは同じことです。何を自分に対して欲求しまた他人に対して欲求するかということの中身は,どちらのいい方をしても変わるところはないからです。ここの部分は各人は自己の利益suum utilisを求めるべきであるということが,不徳の基礎ではなく徳virtusの基礎であるということを説明しようとしているので,他人のために欲求しないことを自分に対しても欲求しないといわれているまでです。したがって,他人に対して欲求しないことを自分に対しても欲求するなという命題は,この備考Scholiumの中においては,一種の道徳的命令としての機能をもつことになります。
第四部定理三七は,自分のために欲求する善bonumを他人にも欲求するといっています。ただしこれはこの定理Propositioの文言から分かるように,その人間が有徳的であるということが前提されています。なので,自分のために欲求することを他人のためにも欲求せよという命題が,道徳的命令としてこの定理に中に含まれているわけではありません。むしろ有徳的であるなら,自分のために欲求する善を他人に対しても欲求するのは必然的帰結であるという,一種の事実命題が含まれているだけです。僕が事前にいっておいたことと関連させれば,徳の規準は自分自身にあって,自分自身が有徳的でありさえすればそのコナトゥスconatusはやはり有徳的である人間のコナトゥスと一致するということが必然的にnecessario帰結されるというのと同じです。
そしてこれが必然的な帰結なので,この帰結から逸れていくならそれは悪malumといわれるのです。このために,憎しみodiumによって他人を殴打することが悪といわれることになります。ただこのことは,殴打という身体的行動にのみ的を絞っていますから,國分によるものとは別の説明も可能だと僕は考えています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます