スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大成建設杯清麗戦&第四部定理三七備考一

2024-07-25 19:02:37 | 将棋
 犬山市で指された昨日の第6期清麗戦五番勝負第二局。
 加藤桃子女流四段の先手。やや変則的な手順でしたが福間香奈清麗のごきげん中飛車で①-Aのような将棋になりました。
                                        
 先手が押さえ込むか後手が食い破るかという将棋。ここで☖5四歩と打ったのですが,これが性急だったようです。☖8二王とでも寄って,先手の対応をみていくのが優りました。
 ☗5四同歩に☖7七角成☗同桂と角を交換して☖5四銀。先手は☗5二歩と打ちました。
                                        
 ここで☖同金と取ったのが決定的な敗着になりました。☗5五歩と打たれて食い破ることはできたものの5四の銀を取られる方が大きく響きました。ここは☖同飛と取っておき,後に後手の方から☖5五歩と打てるように進めなければいけなかったようです。
 加藤女流四段が勝って1勝1敗。第三局は来月6日に指される予定です。

 一般的に現実的に存在する人間が他者を殴打することのすべてがmalumといわれるわけではありません。分かりやすい例を用いればボクシングのような格闘技において対戦相手を殴打する行為というのは,悪といわれることはないからです。スピノザが示しているように,憎しみodiumに駆られて他人を殴打する行為が悪といわれるだけのことです。
 憎しみは悲しみtristitiaの一種なので,必然的にnecessario受動passioであることになります。ただし,他者に対する憎しみに駆られた人間が,必ずその他者を殴打するわけではありません。このとき,憎しみというのは感情affectusですから,もし何かがそれを抑制するとすれば第四部定理七にあるように憎しみとは別の感情であることになります。そしてその別の感情は,抑制される感情,この場合でいえば憎しみより強力でありさえすれば十分なのであって,能動的であるか受動的であるかを問われるわけではありません。もしそれが理性ratioから生じる感情,あるいは同じことですが徳virtusから生じる感情であればこの抑制はその人間の能動actioであり,そうでないならこの抑制もまたその人間の受動ということになります。しかし能動であれ受動であれ憎しみは抑制されるのですから,他者への殴打という行為には至らないことになるのは同じです。
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では,こうした場合に,受動によって憎しみを抑制し,殴打という行為に至らせないようにするのに有益なのが聖書なのだという主旨のことがいわれていると解して間違いありません。そして聖書に従うことによってこうした憎しみを抑制し他人を殴打しない人間の態度が,敬虔pietasといわれるのです。すなわち敬虔というのはスピノザの哲学においては思惟作用を意味するのではなく,身体的振る舞いを意味する,あるいは身体的な所作も意味すると解さなければなりません。しかしもしもこれを思惟の様態cogitandi modiあるいは理性から生じる欲望cupiditasと解するなら,それは道義心pietasといわれるのです。これは第四部定理三七備考一で,宗教心が説明された直後にいわれています。
 「我々が理性の導きに従って生活することから生じる,善行をなそうとする欲望を私は道義心という」。
 道義心はそれ自体で徳であることになります。

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