スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

お~いお茶杯王位戦&納骨

2021-07-16 19:14:57 | 将棋
 13日と14日に旭川市で指された第62期王位戦七番勝負第二局。
 豊島将之竜王の先手で角換り相早繰り銀。先手が1筋,後手の藤井聡太王位が9筋の位を取る進展。先手の位の方が生きる展開になり,その分だけ先手がリードを奪いました。
 2日目の14日に僕は新型コロナウイルスのワクチンの1回目の接種を受けました。帰宅してAbemaTVをみると第1図の局面で先手が長考していました。
                                         
 ここは岐路のひとつ。☗同銀と取ると☖7二飛☗7五歩☖6四歩と進んで長い戦いになります。
 実戦は☗6六銀と出ました。これは☖8六歩☗5五銀☖8七歩成☗5四銀☖7八と☗同玉と,激しい斬り合いに進みます。斬り合いの方が決着は早くつくことになりますから,先手がこちらを選んだということは,第1図の時点でこの順で勝ちがあるという読みがあったからだと推測されます。
 進んで第2図。
                                         
 第1図のときは,ここで☗7五角と打てば先手が勝てるというのが先手の読みだったようです。ですがここで読み直してみると,後手玉が詰みを逃れる手順があり,修正が必要になりました。そこで☗5九玉の早逃げ。
 この手の意味は☖7八金☗5九玉☖8九龍を避ける意味。ですが最善はそこで☗4八玉のとき,☖2九龍とさせない順で,したがって☗9一角成とするべきだったとのこと。
 ☗5九玉のときに☖9九金と香車を取ったのが非凡な好手。☗4五桂☖8九龍のとき,☗4八玉と逃げて銀を温存すればまだ先手に分があったようですが,☗6九銀と打ったために逆転となりました。
 ☗9一角成も☗4八玉も,実戦の中では選びにくく思えます。したがって第1図から斬り合いに出て先手が勝つのは,難易度が高すぎたということになるのではないでしょうか。
 藤井王位が勝って1勝1敗。第三局は21日と22日に指される予定です。

 8月1日,土曜日。この日は妹のグループホームのある地域での盆踊りが予定されていました。このためにこの週は妹を迎えに行きませんでした。ですが盆踊りは,新型コロナウイルスの蔓延防止の観点から中止になりました。
 8月3日,月曜日。この日が父と父の両親の遺骨を,日野公園墓地内からお寺へ移すことになっていた日でした。僕と7月15日に電話でこの日程を最終的に決定した伯父,父のきょうだいの長男と,父のきょうだいの次男夫婦の4人が参列することになっていました。まず日野公園墓地内の石材店に現地集合。3体の遺骨を手に,次男夫婦の自動車でお寺へ。ところがお寺の方では納骨の用意ができていませんでした。前に説明しておいたように,連絡が不十分であったのです。とはいえ3体の遺骨をそのままにしておくことはできません。なのでさしあたり,母が死んだときに暫定的に納骨しておいた,合同の納骨堂に納骨しました。幸いなことに,といっては変ですが,15日に母の三回忌を執り行うことは事前に決定していましたので,その日に正式にこれらの遺骨を会堂内の個別の納骨堂に納骨することにしました。もちろんそのようにできるような手続きは,この日のうちに済ませました。
 8月5日,水曜日。午前10時にお寺の奥さんから電話がありました。これは15日の三回忌と,合わせて行うことになった納骨に関してのことです。当日に納骨するのではなく,事前に納骨しておいて,当日は読経だけにすることもできるがそれでどうかという打診でした。当日は僕と妹で行くことにしていて,妹への負担を考慮すればこれはありがたい打診でした。なのでそのようにしてもらうように依頼しました。
 8月8日,土曜日。午後1時15分にまたお寺の奥さんから電話がありました。3体の遺骨に関して,個別の納骨堂への納骨をすでに済ませたという連絡でした。ただ,骨壺の中に改葬許可証が入っていなかったと伝えられました。改葬許可証は別に僕が持ってましたので入っていなかったのは当然です。15日に持参することにしました。
 8月12日,水曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。翌日から妹は夏季休暇だったからです。
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農林水産大臣賞典ジャパンダートダービー&日程

2021-07-15 19:07:43 | 地方競馬
 昨晩の第23回ジャパンダートダービー
 キャッスルトップが押してハナへ。4馬身くらいのリードになりました。2番手にはロードシュトローム。6馬身差の3番手にゴッドセレクション。4番手にウェルドーン。5番手にブライトフラッグ。6番手にリプレーザとジョエルとスマッシャー。9番手にギガキング。10番手にセイカメテオポリス。11番手にロングランとダノンブレット。5馬身差の最後尾にキラカイドウという隊列。前半の1000mは62秒6のミドルペース。
 3コーナーでキャッスルトップのリードは3馬身くらい。ここからロードシュトロームが差を詰めていくと,その外からゴッドセレクションとウェルドーンが追い上げていき,4コーナーでは4頭が雁行。逃げたキャッスルトップが外に持ち出したので,開いた離れたインコースにリプレーザが進路を選択。スマッシャーは大外から。ロードシュトロームは脱落。ゴッドセレクションとウェルドーンが並んでキャッスルトップを追いましたが,キャッスルトップはしぶとく粘り,一杯に逃げ切って優勝。アタマ差の2着にゴッドセレクション。アタマ差の3着にウェルドーン。クビ差の4着にスマッシャー。
 優勝した船橋のキャッスルトップは昨年10月にデビュー。なかなか勝利をあげられず,今年の5月に9戦目で初勝利。するとその後に連勝。3連勝でここに挑戦。さすがに相手が違うので厳しいかと思いましたが,見事に大レース制覇を達成。人気薄のノーマークの存在で楽に逃げることができたのが最大の勝因でしょうが,2着から5着まで,実績で優る馬が占めていますので,実力馬の凡走に助けられての勝利というわけではありません。よって相応の評価が必要かと思います。父は2008年にJBCスプリント,2009年にクラスターカップ東京盃を勝ったバンブーエール。母の父はマヤノトップガン
 騎乗した船橋の仲野光馬騎手はデビューから7年1ヶ月で重賞初勝利となる大レース初制覇。管理している船橋の渋谷信博調教師は開業から16年3ヶ月で重賞初勝利となる大レース初制覇。

 「自由意志と目的論の帰趨」に関連する論考はこれですべてです。『スピノザ―ナ10号』は,この論文の後に,柴田寿子の論文についての川添美央子の論評である「スピノザはリベラル・デモクラシーにどう切り込むか」という書評が含まれていますが,これは政治論を主眼としたものであり,このブログでは扱いません。ですのでこの冊子に関連するすべての考察がこれで終了ということになります。よって今日からはまた日記に戻ります。
                                        
 僕がこの冊子を読み終えたのは昨年の7月13日のことでした。
 7月15日,水曜日。10日に予約しておいた歯科検診でした。予約は午前10時から。僕は歯科検診は概ね3ヶ月の間隔で通っていましたが,このときは5ヶ月ほどの間隔になりました。これはもちろん,新型コロナウイルスの影響で,不要不急の外出というのを避けていたためです。間隔はいつもより長くなっていましたが,クリーニングの時間はいつもと変わることはありませんでした。よく磨けていたようです。
 午後4時に,父のきょうだいの長男から電話がありました。これは日野公園墓地に埋葬されている僕の父および父の両親の遺骨を,お寺の会堂内の納骨堂へ移す日程のことでした。伯父は石材店と相談して適切な日を決めたのですが,お寺の都合もありますので,伯父との連絡の後で僕の方からお寺の奥さんに電話をして,お寺の奥さんと伯父との間で正式な日程を決定してもらうように依頼しました。それで決定したという連絡を受けたのですが,実際には連絡がうまくついていなかったようです。しかしこのことが発覚したのはその当日になってからでしたので,具体的なことはそのときに書くことにします。
 7月22日,水曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。これは昨年は23日と24日が祝日となっていたためです。前の週の金曜日に迎えに行くと,月曜日に送って水曜日に迎えに行くということになり,これは大変ですので,17日の金曜日は迎えに行きませんでした。
 7月27日,月曜日。妹を通所施設に送り,その帰りに日野公園墓地に墓参りに行きました。遺骨を移す前に石材店の社長に会っておきたかったのですが,不在でした。
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再構成&精神の機能

2021-07-14 19:16:07 | 将棋トピック
 処分の発表があった時点で,僕はふたつのことを思いました。ひとつはこの処分に至るまでの将棋連盟の対応に関してです。そしてもうひとつがこれから説明する,疑惑そのものへの合理性です。
 ここで疑惑というのは,三浦九段が指し手に関してコンピュータから援助を受けているということを指します。僕はこのことについては,そのようなことはあり得ないとか,それが事実であるとは考えにくいというように思いました。ただこれは,直観的にそのように思ったということです。その理由のひとつは,連盟の対応がそもそも疑問であり,また処分の理由が,疑惑そのものに対してではなかったということにあります。しかしこれは副次的なものであって,僕がそのように思った最大の理由とは異なります。ですがその理由を述べる前に,気を付けておいてほしいことがあります。
 スピノザの哲学では,直観scientia intuitivaとは第三種の認識cognitio tertii generisのことを意味します。まさに僕はこのとき,第三種の認識として,疑惑が真実であるとは考えられない,いい換えれば,三浦九段はコンピュータの援助を受けて対局していないと思ったのです。このとき,第三種の認識というのは,第五部定理二三備考にあるように,証明demonstrationesそれ自体であるので,何らかの論理的な思考が僕の知性のうちに発生したというわけではありません。しかしそれでは理解が得られないでしょうから,僕の精神の眼Mentis enimがなぜ僕にそのように教えたのかということを記述していきます。いい換えればこのときの第三種の認識を,第二種の認識cognitio secundi generisに基づいて記述していきます。
 ですがこの記述は,ここまでの説明から明らかなように,現時点での再構成ということになります。これは一般的にいえることなのですが,あるときにある人間が第三種の認識によって認識した事柄を,一定の時間の経過の後に第二種の認識によって説明すると,それは必ず再構成になるのです。つまり第三種の認識がなされた時点で,実際に後に説明されるような第二種の認識が発生していたというわけではないのです。なのでこのことについては,その点に必ず留意しておいてください。

 ここまでみてきたことから分かるように,スピノザが精神mensを解するときにつけている留保条件は,たとえば人間の精神mens humanaと馬の精神の間にある機能の差異より,能動的な精神と受動的な精神の間にある差異に主眼が置かれています。したがって,能動的な馬の精神と受動的な人間の精神を比較するという仮定をすれば,より有能な精神は,人間の精神よりも馬の精神であるということになります。もちろんこの仮定が,現実的に何らかの意味をもつのかといえば疑問符をつけざるを得ないのですが,論理的な観点から結論するなら,このようなことになると僕は考えます。
                                             
 したがって,第三部定理五七備考でスピノザが情欲libidoや感情affectus,満足や楽しみついて語っていることが,社会的結合にも妥当すると僕は考えます。ここではそうした満足や楽しみを感じているのは精神であるといわれていて,精神というのは構造主義的な観点から,すべてのものが有するからです。よって,人間が人間らしい情欲に駆られるように,人間は人間らしく社会的に結合するし,馬が馬らしい情欲に駆られるように,馬は馬らしく社会的に結合するのです。同様に,三角形は三角形らしい情欲に駆られ,三角形らしく社会的に結合するというべきでしょう。もちろん三角形が情欲に駆られるとか,三角形が社会的に結合するということは,現実的に何らかの意味を有するわけではないでしょう。しかし第四部定理三五が人間が社会的結合をするということの基礎となるというのであれば,これはこれで社会的結合のモデルについて語っているのですから,馬についても三角形についても同じことが該当します。いい換えれば,もし現実的に存在するすべての馬が馬の理性ratioに従う限りにおいては,すべての馬の本性naturaは一致するでしょう。よってそれを基礎として,現実的に存在する馬は社会的に結合することになるでしょう。同様に,もしも現実的に存在するすべての三角形が三角形の理性に従うのであれば,それらすべての三角形の本性は一致することになり,このことを基礎として三角形は三角形らしい社会を組織することになるのです。ゆえに,この場面では人間中心主義より,本性中心主義を僕は重視します。
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印象的な将棋⑰-9&第五部定理三九備考

2021-07-13 18:47:52 | ポカと妙手etc
 ⑰-8の第2図で僕が異変を悟ったのは,次のような事情からです。
 この局面は先手の手番ですから,攻める手を考えたいところです。ところが⑰-2で後手が打った角が,この局面で後手玉の上部の守備に役立つ駒になっています。このために上から攻める手はすべて無効です。
 上から攻めるのが無効なら横から攻めるほかありません。☗2一飛と打つ手が最も厳しそうですが,これには☖1二角が王手飛車。☗2三飛打と受けるほかないでしょうが☖同角は王手ですから☗同飛成とせざるを得ず,これは攻めになりません。
 ☗3一飛と打てば王手飛車は防げますが,☖4一金と引く手があります。☗同飛成でただですがそこで☖2三角が王手龍取りでこれもダメ。かといって☗1一飛成では攻めとして無効です。
 つまりここでは先手から有効な攻めがありません。なので僕も逆転しているということにやっと気付いたのです。
 実戦は☗6七玉と逃げました。
                                        
 しかしこれでは先手に勝ち目があるとは思えず,この指し手をみて,逆転していることを確信しました。
 第1図以下は☖6四桂☗5七歩☖5九角成で先手玉は受けなし。☗9二歩☖8二王まで指して先手の投了となりました。
                                        
 最後は⑰-4で打った桂馬まで攻めに働くという将棋でした。

 第五部定理三九で有能といわれているとき,それが能動的であるということを意味するのなら,この定理Propositioの全体の意味は,きわめて多くのことに能動的な身体corpusを有する人間の精神mens humanaは,その最大部分が永遠aeterunusであるということになります。これはスピノザが第三部定理五七備考で,単に非理性的動物と人間との間の楽しみの相違についてだけ言及しようとしているのではなく,同じ人間であっても,酔漢と哲学者との間にある楽しみの相違について言及しようとしているということと,相通ずる要素があるということができるでしょう。すなわち,酔漢の身体と比較した場合には,哲学者の身体の方が多くのことに能動的であるので,哲学者の精神は,酔漢の精神よりも最大部分が永遠であるということを,スピノザはここではいいたいのだということです。スピノザはこの近辺では哲学者と酔漢という例示はしていませんが,この定理の直後の備考Scholiumで別の例を示しています。
 「この人生において,我々は特に,幼児期の身体を,その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り,他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体,そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体,に変化させるように努める」。
 ここで幼児期の身体とされているのは,きわめて受動的な身体のことです。現実的に考えても,人間は幼児の間は,自分の身体を能動的に用いること,いい換えれば,自分の身体を十全な原因causa adaequataとして何事かをなすということは,不可能ではないにしても,きわめてわずかな事柄しかできないといえるでしょう。一方,スピノザが努めるconariというとき,それは傾向conatusすなわちコナトゥスconatusを意味するので,必然的にnecessarioそうなっていくということを含意し得るのですが,人間はとくに意図をせずとも,成長と共に,自身の身体を十全な原因とすることを,増加させていくことになるのです。
 ここからも分かるように,第五部定理三九でも,スピノザはある人間の身体と別の人間の身体,あるいは同じ人間の幼少期の身体と成長後の身体の比較をすることを主眼としているのです。あるいは精神の比較を主眼としているのです。
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家臣&別の箇所

2021-07-12 19:23:48 | 歌・小説
 夏目家も篠本家も元は武田家の家臣で,それぞれの理由で徳川家に仕えるようになったということに関連して,僕の方からいっておきたいことがあります。
                                        
 夏目家の先祖は,武田家に対して謀反を起こして徳川家に寝返った家臣に従うことによって,徳川家の家臣となったのでした。一方で篠本家の先祖は,最後まで武田家に仕え,武田家の滅亡によって徳川家に降伏し,徳川家の家臣となったのです。このことは,漱石と篠本の間で共通の認識となっていたということが重要なのであって,それが史実であるか否かは問題ではありません。ですので史実に関してはここでは調査しませんし,断定もしません。
 このことが篠本と漱石が喧嘩したときに,篠本にとって有利に働いたのは,漱石がこの点に関して負い目を感じていたからですし,篠本自身も,それが漱石の負い目になるであろうと思っていたからです。そうでなければ篠本が喧嘩のときにわざわざそのことを持ち出す理由がありませんし,実際に持ち出さされれば効果があったのですから,漱石がそのように感じていたということも断定できます。
 どんな事柄であれ,ある事柄を負い目と感じるのなら,それを負い目と感じる理由があるのでなければなりません。そしてこの場合には,単に夏目家と篠本家の間の事情だけでは説明できません。もちろんその関係は,漱石の篠本に対する負い目を増幅はしたでしょうが,もし漱石と篠本の間に何の関係もなかったら,漱石が負い目を感じることがまったくなかったとはいえないからです。むしろ,自分の先祖が武田家を裏切って徳川家の家臣になったということについて,漱石はそれ自体で負い目を感じていたと解するべきなのです。
 これは僕の推測ですが,おそらく漱石が感じていたこの負い目は,篠本が想像していたよりも強かったのです。いい換えれば,喧嘩のために篠本が期待していたよりも大きな効果が,この事実を漱石に対して告げることによって得られたのです。そしておそらくそれは,家臣がどうあるべきかということについて,漱石の方が篠本よりも強い思いをもっていたからだと思われるのです。

 この種の留保条件を『エチカ』の中から探すなら,別の箇所になります。ここではまず第二部定理一四をあげておきます。
 この定理Propositioは人間の精神mens humanaについて言及しています。ですがその知覚perceptioあるいは認識cognitioの適性は,人間の身体humanum corpusがより多くの仕方で影響される,つまりほかの物体corpusから刺激されafficiまたほかの物体に対して作用するに従って大であるといわれています。この部分に関しては,別に人間の精神に限定する必要はなく,一般に精神に妥当するでしょう。精神と身体を構造主義的に解する限り,精神は身体の観念ですから,ある物体いい換えれば身体は,ほかの物体から刺激を受ける適性あるいはほかの物体に刺激を与えるafficere適性が大であるほど,精神の認識の適性も大になるのです。つまり,精神の機能は身体の機能,ほかの物体から刺激を受ける機能およびほかの物体に対して刺激を与える機能に比例するのです。よってここには確かに精神についての機能主義的留保があるといえるでしょう。この定理は,人間の身体がほかの物体から刺激を受けまたほかの物体に刺激を与える適性が高いがゆえに,人間の精神の認識の適性もきわめて高いということをいっているのであり,これはほかの物体の精神よりも,人間の精神の機能は優れているといっているにほかならないからです。
 もうひとつ,第五部定理三九もある観点から留保条件になっていると僕は考えます。この定理は,身体が有能であるほど精神の最大部分が永遠aeterunusであるといっていて,もちろんこの定理もまた,意図されているのは人間の身体でありまた人間の精神ではあるのですが,別に人間に限定して理解しなければならないというものではないからです。たとえばAとBというふたつの物体があって,Aという物体の方が有能であるとすれば,Aの精神の方がBの精神より最大部分が永遠であることになるからです。
 ただしこの定理は,精神を機能主義的観点から理解するための留保条件として解釈する上では,注意するべきことが含まれています。ここで有能といわれているのは,能動actioという意味であって,実在性realitasを意味するのではありません。あるいは同じことですが,完全性perfectioのことをいうのではありません。
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不死鳥杯&留保条件

2021-07-11 19:16:16 | 競輪
 福井記念の決勝。並びは森田‐郡司‐斉藤の東日本,山口‐岩津の西日本,古性‐三谷‐松岡‐村田の近畿。
 牽制状態となった後,古性がスタートを取って前受け。5番手に森田,8番手に山口という周回に。残り2周のホームの入口から山口が上昇開始。山口が古性を叩いたのはバックの入口。そこから森田が山口を叩きにいくと,斉藤は離れました。山口は抵抗し打鐘から激しい先行争いに。この争いでまた隊列に乱れが生じました。先手を奪ったのは1コーナー過ぎに内から前に出た山口。競り合った森田が2番手で郡司がマーク。郡司の後ろに岩津。バックから古性が発進。郡司が止めに入りましたが古性は乗り越え,郡司は番手の三谷の内に飛びつきました。そのまま最終コーナーで捲り切った古性が優勝。競り合いながら古性をマークした郡司が1車身差で2着。直線で郡司の内に進路を取った岩津が半車身差で3着。郡司に競り負ける形で三谷は4分の1車輪差の4着。大外から伸びた村田が半車輪差で5着。
 優勝した大阪の古性優作選手は4月に広島のFⅠを優勝して以来の優勝。記念競輪は一昨年2月の静岡記念以来の6勝目。福井記念は初優勝。このレースは森田の先行が有力で,古性が分断策に出る場合,郡司のところで競るのか斉藤のところで競るのかが焦点と見立てていました。ところが山口が抵抗して激しい先行争いになり,僕の見立てとはまったく異なった展開に。斉藤が離れてしまったこともあり,脚を溜めることになった古性には有利になりました。前受けが予定通りの作戦であったかは不明確ですが,先行争いを誘えたという意味で,よい位置取りだったのではないでしょうか。

 スピノザの哲学では精神mensも身体corpusも構造主義的観点から解釈するのが適切であると僕は考えます。ですが,僕たちは精神や身体を機能主義的側面から理解することに慣れていますので,その解釈に対応するための留保条件も必要になります。これは簡単にいえば,各々の身体の観念が精神といわれるのですから,各々の精神の本性naturaの相違は,各々の身体の本性の相違に比例するということです。というか,スピノザは人間の精神mens humanaのことを人間の本性natura humanaということがありますが,このことは一般にXの本性とはXの精神のことをいうというように解せます。したがって一般にXの本性は,Xの身体のあり方,X的物体のあり方の相違によってそれぞれに異なってくるといういい方が可能です。したがってこの観点からも,この留保条件を説明することができます。
                                   
 第三部定理五七備考のうちに,スピノザ自身がこうした留保条件をつけているとみることができます。そこではある個体の楽しみとほかの個体の楽しみは,一方の本性essentiaと他方の本性と同様に相違しているといっているからです。ただしスピノザがここでこのような留保条件をつけているのは,たとえば人間の精神と馬の精神の相違について語りたかったからではありません。もちろんこの文言はそのように解釈することができるのであって,スピノザにそういう意図がまったくなかったとは僕はいいません。しかしスピノザはこの直後に,哲学者の楽しみと酔漢の楽しみの相違について言及しているので,スピノザがとくに注意を促したかったのは,現実的に存在する人間の楽しみについてなのであって,精神を機能主義的側面から留保するという点にあったわけではないでしょう。実際に第三部定理五七というのは,現実的に存在する諸個人の現実的本性actualis essentiaの相違をいっているのであり,この備考Scholiumはその定理Propositioに附せられた備考なのですから,スピノザがこのようなことをいう主目的が,人間の精神と非理性的動物の精神に,機能主義的な側面から留保条件をつけるということにあったとは考えにくいです。そして同時に,その主目的が,精神と身体を構造主義的観点から把握するという主張にあったわけでもないということも,確かです。
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戸口の雑感⑨&身体

2021-07-10 19:02:23 | NOAH
 の最後のところでいったアントン・ヘーシンクについては,戸口はプロレスラーとしてまったくといっていいほど評価していません。このシリーズでヘーシンクはジャンボ・鶴田のUN王座に挑戦したのですが,この試合もひどい試合であったと酷評しています。このシリーズではタイトル戦の前哨戦として,戸口がヘーシンクと組んで鶴田と当たるという試合がいくつか組まれていたこともあり,タイトル戦の翌日にわざわざ事務所まで行き,馬場に直訴したそうです。この結果として,鶴田と戸口の対戦が安売りされることはなくなったし,鶴田のタイトル戦の相手も厳選されるようになったと語っています。前述したようにヘーシンクは馬場が呼んだわけではなく,日本テレビが契約した選手でしたから,鶴田との試合については馬場としてもおそらく組まざるを得なかったのだと推測しますが,レスラーとしてのヘーシンクに対する評価は,馬場の評価も戸口の評価と同じようなものだったと解してよいと思います。
 この後,戸口はチャンピオンカーニバルに出場。鶴田との公式戦は30分の時間切れ引き分けでした。そして5月に,大木金太郎と保持していたインタータッグのベルトを,馬場・鶴田組に奪取されます。この試合は最後に大木が3カウントを奪われて終わっているのですが,この点について戸口は,この時期から馬場の中では大木と戸口の立場が逆転したからだと言っています。実際にこれ以降,大木と戸口がタッグを結成する機会は減少していったそうです。
 9月13日に名古屋で戸口と鶴田のシングルマッチが行われました。この日は馬場と大木のシングルマッチも組まれていたのですが,メーンは戸口と鶴田の試合でした。ですから,馬場の中で大木と戸口の立場が逆転していったという戸口の発言には,ある程度の裏付けはあると考えてよいでしょう。このシングルマッチは60分の時間切れ引き分けで,戸口のアピールにより5分の延長戦があり,そこでも決着はつきませんでした。このアピールについて戸口は,アメリカで学んだことだと言っていますが,体力的には限界で,あと10分というアピールはできなかったそうです。鶴田はケロッとしていたようなので,この時点でスタミナという面では,鶴田の方が上だったのでしょう。戸口が鶴田を最も高く評価するのもその点です。

 現在の考察とはいっかな関係ありませんが,関連事項についてふたつほど指摘しておきます。
 ある物体corpusとその観念ideaは同一個体で,同一個体は合一しているとみられる限り,物体の観念はその物体の精神mensといわれるわけです。これが構造主義的解釈なのですが,この解釈が精神について適用されるのであれば,精神の観念対象ideatumである身体corpusにも妥当するというように考えられます。つまりある物体がその物体の観念と合一しているという観点からみられると,その物体はその物体の身体といわれるという解釈です。基本原理としていえば,当ブログはこのような解釈の下に執筆されていると理解してください。このことを,ここでは別の観点から説明します。
                                   
 スピノザが人間の身体humanum corpusというとき,身体ということに特別の意味があるわけではありません。これは人間的物体というほどの意味だからです。したがって,馬の身体とは馬的物体のことであって,三角形的物体といえば,それは三角形の身体を意味するというように解することができるでしょう。馬の身体というのは僕たちはそんなに不自然には感じないでしょうが,三角形の身体といわれれば僕たちは不自然に感じられるのではないかと思います。ですがもし三角形的物体といわれれば,そこまで不自然であると感じられないのではないでしょうか。しかしもしもそれが不自然に感じられないのだとすれば,三角形の身体というのを不自然に感じていないというのと同じことなのです。
 このことが,すべての物体は精神を有するという考え方を理解するために役立つかもしれません。三角形の身体とは三角形的物体のことであって,それはその三角形的物体が三角形的物体の観念と合一しているという観点からいわれるのです。すると,同じ観点から三角形的物体の観念は三角形の精神といわれることになり,三角形は精神を有するということがどういうことなのかということを理解することができるのではないでしょうか。そしてこのことは物体一般,○○的物体といわれるものすべてに妥当するのですから,すべての物体が精神を有するというのがどういう意味なのかということも理解しやすくなるのではないでしょうか。
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農林水産大臣賞典スパーキングレディーカップ&構造主義的解釈

2021-07-09 19:04:59 | 地方競馬
 ホクトベガメモリアルの昨晩の第25回スパーキングレディーカップ
                                        
 最内のサルサディオーネがハナへ。ウルトラマリンとリネンファッションが2番手を併走し,4番手に内に入れたグランデストラーダ。この4頭が先行集団。3馬身差でフェアリーポルカとテオレーマ。3馬身差でライゴッドとサルサレイア。5馬身差の最後尾にマルカンセンサーと,頭数のわりに縦長の隊列になりました。前半の800mは48秒7のミドルペース。
 3コーナーでサルサディオーネがリードを2馬身に広げました。ウルトラマリンは押してもついていくことができなくなり,その外からリネンファッションが2番手に。しかし直線に入ると逃げたサルサディオーネがリネンファッションを置き去りにして独走。鮮やかに逃げ切って優勝。発走後の正面からずっと内を回り,最後の直線だけリネンファッションの外に出されたグランデストラーダがよくリネンファッションを追い詰めましたが届かず,リネンファッションが6馬身差で2着。グランデストラーダがクビ差で3着。
 優勝したサルサディオーネクイーン賞以来の勝利で重賞3勝目。逃げ馬は気分よく走ると,どんなに強い馬が相手でも圧倒するということがありますが,このレースはその典型。強い雨で重馬場になったのも逃げ馬には有利な要素で,これらの条件が複合しての圧勝だと思います。父はゴールドアリュール。母の父はリンドシェーバー。母は2002年に東京プリンセス賞を勝ったサルサクイーン。Dioneはギリシア神話の天空の女神。
 騎乗した大井の矢野貴之騎手はクイーン賞以来の重賞4勝目。スパーキングレディーカップは初勝利。管理している大井の堀千亜樹調教師は重賞4勝目。スパーキングレディーカップは初勝利。

 スピノザの哲学では,同一個体は合一しているといわれます。つまり物体corpusAとAの観念ideaは合一しているといわれます。人間でいえば,現実的に存在するある人間の身体humanum corpusとその人間の精神mens humanaは合一しているということになります。しかし,人間の身体と合一している思惟の様態cogitandi modi,すなわちその人間の身体の観念が,その人間の精神といわれる根拠は,人間の身体とその人間の精神が合一しているという点に由来します。いい換えれば,ある物体の観念は,その観念が観念の対象ideatumとなっている物体と合一しているという観点からみられるとき,それはその物体の精神といわれるのです。他面からいえば,この合一unioという観点を考慮せず,単にある物体とその物体の観念が同一個体であるという観点からみるのであれば,それはその物体の観念といわれるのであり,その物体の精神といういわれ方はしないのです。よって人間について,そのことを重視して正確を期していうなら,現実的に存在しているある人間の身体とその人間の身体の観念は同一個体です。そしてこの同一個体は合一しているために,その人間の身体の観念はとくにその人間の精神といわれることになるのです。第二部定理一三備考の冒頭でいわれているのは,概ねこのような意味だと解するべきです。
 どのような物体にも同一個体があるということはすでに判明しています。そして同一個体は合一しています。したがってすべての物体に精神があるということが論理的に帰結します。同じ備考Scholiumの中でスピノザはすべてのものが程度の差はあっても精神を有しているのだというとき,ここでは日本語でいう場合には精神と訳すより魂animataと訳す方が適切かもしれない語,人間の精神といわれるときの精神とは異なった語を用いているのですが,それでもすべての物体が精神を有するということは,こういった論理構造をもっています。同時にスピノザはこの備考で,物体の本性naturaがどのようであるのかが異なるように,その物体の精神の本性も異なるという主旨のことをいっていて,精神という語を,機能的な意味から解釈しないようにという注意を与えています。よって構造主義的な解釈として,すべての物体は精神を有するのです。
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告発&備考の意図

2021-07-08 18:55:07 | 将棋トピック
 今回の連載では,抗議に対して解答することが主目的ではありますが,それよりも幅広く,このときのことに関連した出来事について記述していきます。処分および対応について書いたときに,疑惑についての告発があったことを指摘してありますので,今回はそのことについて書きます。というのも,三浦九段の疑惑が晴れた後に,告発をした棋士に対して非難が浴びせられるということがあったからです。
 僕はこのような非難はまったくお門違いのものだと考えます。僕は告発した棋士たちが,後に僕が述べるような仕方で考えれば,告発には至らなかった可能性はあると思います。ただ,対局相手からみて三浦九段が不自然に離席をしていると感じる事実はあったのですから,このことについて告発するというのは,その棋士にとって自然権の一部である表現の自由を行使したにすぎないと僕は考えるからです。とくに僕は,人間的自由には受動的自由も含まれると考えていますので,この場合の表現の自由は,そうした受動的自由の一部として守られなければならないと考えるのです。他面からいえばこうした行動を非難するのは,単に他者の自然権の侵害であると僕は考えます。責任はもっぱら告発を受けた側の対応にあるのであって,告発した側にあるのではありません。
 もちろん表現の自由を隠れ蓑にして,悪意をもって他者を陥れたり傷つけたりする行為は,むしろ表現の自由を危機に陥れる行為であって,そうした行為が非難を受けるのは止むを得ない面もあると僕は考えます。ですがこの場合は,確かに事実として不自然と感じられる離席はあって,この離席の表象像がコンピューターによる指し手の援助の表象像と連結しても不自然ではありません。そして告発者はそれを外部に漏らしたのではなく,内部に告発して対応を求めたのですから,自然権の行使をまったく逸脱していないのです。もしこのような行為を禁じれば,むしろその組織は腐敗していくだけでしょう。
 したがってこの件について,誤った結論を出して三浦九段を処分した人たちが批判されるのは当然としても,告発した人たちを批判するのはお門違いであると僕は考えます。

 僕は第三部定理五七備考でいわれていることは,非理性的動物だけに妥当するわけではなく,動物ではないすべての物体corpusに対しても成立すると考えます。これは,たとえスピノザがそのようなことをこの備考Scholiumにおいて意図していなくても,成立すると考えるということです。動物ではない物体について,それが感情affectusをもつとか,その本性naturaに満足して生きそれを楽しんでいるというのは,それ自体では不条理であるということは僕は認めます。他面からいえば,ある種の物体が感情をもたないということ,いい換えれば感情をもたない物体が現実的に存在するということは僕は認めます。ですが論理上は,すべての物体が感情を有し,各々の本性に基づく満足を得てそれを楽しんでいると解する方が,スピノザの哲学を正しく理解するためにはよい方法だと僕は考えているのです。
                                   
 このことはスピノザがこの備考の中で,非理性的動物が満足している生と楽しみを,その非理性的動物の観念ideaすなわちその非理性的動物の精神mensと等置していることを根拠とします。前に簡単にいっておいたように,スピノザの哲学では精神というのは,何らかの機能を意味するものではありません。いい換えれば機能主義的な意味からスピノザの哲学の精神の何たるかを判断することはできません。むしろ精神とはある構造を意味するので,構造主義的な観点から解する必要があるのです。そしてそれは,原理的には次のような構造を有します。
 第二部定理七系により,ある事物が形相的にformaliterすなわち知性intellectusの外に存在するなら,その形相的有esse formaleの観念というのが存在します。ここではすべての形相的有について考える必要はありませんから,ある物体が現実的に存在するなら,その物体の観念もまた現実的に存在するということだけを理解するだけで十分です。このとき,現実的に存在する物体をAとすれば,AとAの観念の秩序ordoと連結connexioは一致します。第二部定理七が意味しているのは,観念と観念対象ideatumの秩序と連結は一致するということであり,Aの観念の観念対象はAにほかならないからです。
 このときに,AとAの観念は同一個体であるといわれます。一般に観念と観念対象は同一個体であるからです。
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ピンクタートル&非理性的動物

2021-07-07 19:22:32 | 血統
 先週の帝王賞を勝ったテーオーケインズの3代母は1995年にアメリカで産まれたピノシェットという馬で,テーオーケインズの輸入基礎繁殖牝馬となります。Pinochetはおそらくチリのピノチェト元大統領のことと思われます。ただピノシェットの母で1988年にアメリカで産まれたピンクタートルという馬もそれ以前に輸入されていますので,牝系はピンクタートルを基礎として紹介します。バレークイーン,ヘザーランズと同じでファミリーナンバー1-l
                                          
 ピンクタートルはアメリカで2頭の仔を産んでいて,ピノシェットは2頭目の産駒になります。ピノシェットを産んだ後,アメリカで種付けされ,仔を孕んだ状態で輸入されました。
 輸入されたピンクタートルが1998年に産んだ牝馬がレディパステル。2001年にオークスを勝ち,2003年には中山牝馬ステークスと府中牝馬ステークスに勝ちました。
 一族のほかの重賞の勝ち馬は2頭で,この2頭はピノシェットの子孫になります。1頭がテーオーケインズで,この一族から2頭目となる大レースの勝ち馬。もう1頭がテーオーケインズの母の5つ下の半妹,テーオーケインズからみれば叔母にあたるタマノブリュネットで,この馬は2016年にレディスプレリュードを勝ちました。
 重賞の勝ち馬はこれだけなのですが,重賞の入着馬とかJRAでオープンまでいった馬というのが多くいます。活力が衰えているような牝系でないことは間違いないと思います。

 スピノザが第三部定理五七備考で情欲について述べていることが,社会societasについても妥当すると僕は考えます。つまり,人間が人間らしい情欲に駆られ,馬が馬らしい情欲に駆られるのと同じように,人間は人間らしい社会的結合を果たし,馬は馬らしく社会的に結合するというべきだと考えるのです。人間の情欲と馬の情欲の差異は,人間の本性natura humanaと馬の本性の差異によって説明されているのですから,この部分では本性中心主義に則したことをスピノザはいっていると解せます。この本性中心主義が,社会についても妥当する,つまり人間だけが社会的に結合するという意味での人間中心主義は成立せず,すべてのものがその本性に則した社会を形成すると解するのが適切だと僕は考えます。これが,人間中心主義と本性中心主義が対峙する場面では,本性中心主義の方を選択するべきであると僕が考える,ふたつめの理由になります。
 ただ,この備考Scholiumというのは,いわゆる非理性的動物についていわれています。したがって,スピノザが解しているであろう非理性的動物,この備考の中で列挙されているものでいえば,馬,昆虫,魚,鳥といったものが社会的に結合するということは,この備考から帰結させることができるけれども,理性的な動物にも非理性的な動物にも該当しない諸々の様態modus,あるいは諸々の物体corpusについて,そうしたものが社会的に結合するということを帰結させることはできないのではないかという反論には,一定の理があることは確かです。スピノザはこの備考では具体的な例としては情欲をあげていますが,情欲を含む一般的な感情affectusや,衝動appetitusとか満足とか楽しみについても語っているのであって,そうしたことを感じることができるのは動物だけであり,動物でない物体がそうしたことを感じるのは不条理であるというのは,少なくとも現実的な観点からはその通りであるといわざるを得ないからです。
 しかし,もしもこの備考の意味をそのように解するのだとしても,少なくとも人間だけが社会的に結合するというわけではないということは結論することができるでしょう。なぜなら,少なくとも人間を含まない非理性的動物は,社会的に結合するからです。
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流星⑤&第三部定理五七備考

2021-07-06 18:56:55 | 歌・小説
 の後はの後の部分と同じです。ただしの冒頭にいったように,この部分はリフレインされますので.この部分は最後にすることとして,3番に入ります。
                                   
 3番といいましたが,3番は1番および2番に比べると短く,②の部分と④の部分に対応しています。これはメロディーラインにおける対応という意味で,の部分と③の部分は3番にはないということです。

     地平のはしから地平のはしまで
     皆、流星のひと走り


 ここでようやくタイトルである流星が歌詞の中にも登場します。この流星が何を意味するかはもはや明白でしょう。それはトラックです。確かに長距離トラックには光り輝く装飾が施されていることが少なくない上に,日本中をあちらからこちらへと走り回っているわけですから,流星と喩えるに相応しいといえるかもしれません。

     ほら 流星がまたひとつ 君は願いを言えたかい

 流れ星をみたときに願い事をするとそれが叶うというのは,とても有名な迷信といえるでしょう。ここで流星といわれているのは実際には流れ星ではなく長距離トラックのことですが,トラックとすれ違うたびに願い事をすることが,あるいは歌い手の習慣になっているのかもしれません。

 それでは,人間中心主義と本性中心主義が対立したとき,スピノザの哲学では本性中心主義の方を選択するべきであると僕が考えているもうひとつの理由の説明に移ります。これは『エチカ』のテクストに基づいています。
 スピノザは第三部定理五七備考で,非理性的動物,これが意味するのは人間以外の動物と解するのが適切だと思いますが,そうした動物の感情affectusについて言及しています。スピノザはこうした動物が感情を持つということは疑い得ないことであるとして,そうした動物の感情と人間の感情は,動物の本性naturaと人間の本性natura humanaが異なっている分だけ異なっているといっています。スピノザは単に非理性的動物とはいわずに,いわゆる非理性的動物といっていますので,こうした動物が理性ratioを持つということを完全に否定しているのではないかもしれません。もしスピノザがそのようにいうことで,本当は動物にも理性があるということを暗に示唆しているのであれば,僕の考察にとっては有利になるのですが,これは確実にそうであるとはいえませんから,このことについてはここでは触れません。
 スピノザはこのことを述べた後で,次のようにいっています。
 「馬も人間も生殖への情欲に駆られるけれども,馬は馬らしい情欲に駆られ,人間は人間らしい情欲に駆られる。また同様に昆虫,魚,鳥の情欲および衝動はそれぞれ異なったものでなければならぬ。こうしておのおのの個体は自己の具有する本性に満足して生き,そしてそれを楽しんでいるのであるが,各自が満足しているこの生およびこの楽しみはその個体の観念あるいは精神にほかならない。したがってある個体の楽しみは他の個体の楽しみと,ちょうど一方の本質が他方の本質と異なるだけ本性上相違している」。
 この備考Scholiumの中で,個体の観念ideaとその精神mensは等置されていますが,これはスピノザの哲学において,精神が身体corpusの観念とされているからです。つまりたとえば馬の身体の観念というのは馬の精神のことをいうのであって,これはその精神の機能を意味するのではありません。人間の精神と馬の精神もまた,人間の本性と馬の本性が異なる分だけ異なっていると理解しなければなりません。
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ヒューリック杯棋聖戦&三角形の結合

2021-07-05 19:16:22 | 将棋
 3日に沼津御用邸で指された第92期棋聖戦五番勝負第三局。
 渡辺明名人の先手で矢倉。後手の藤井聡太棋聖は居玉での急戦。先手にも研究があったようで,先手の研究に後手が対応していく形で進行。凄まじく難解な将棋になりました。
                                        
 とくに白眉であったのが第1図近辺の実戦とその変化。
 ここから後手は☖8八銀と打ち☗同金☖同飛成と進めました。
                                        
 まず考えなければならないのは,銀を渡したことで後手玉に詰みが生じているかどうか。これは次の手の棋譜コメントにあるように,打ち歩詰めで後手玉は逃れています。
 僕はAbemaTVで観戦していましたが,第2図は先手が勝勢に近い数値を示していました。推奨の一手は☗7四銀。
 その瞬間は先手玉は詰みません。なので最も自然な手は☖7四同飛でしょう。このときに後手玉も詰みませんので,先手は後手玉に必至を掛けます。☗5三角成からも必至は掛けられますが,後手の手駒を増やさず,2二の金を取るのが先手にとって最良。2二に馬ができると6六に利いて,先手玉は詰みにくくなるからです。☖7四同飛に☗6三銀と打つと,変化はありますが先手はその順に進めることができます。
 そのときに先手玉が詰むかどうか。☖7八銀☗5九玉☖7九龍☗4八玉☖3九角☗3七玉まで,先手は変化の余地がありません。そのときに☖2八角成という手があり,☗同玉だと詰むので普通は必殺手なのですが,☗4八玉と戻ると☖5六桂と打っても☖3六桂と打っても先手玉は詰みません。しかし☗4八玉に☖3九馬は再び☗3七玉。☖2八馬☗4八玉☖3九馬☗3七玉のように連続王手の千日手で先手玉は逃れています。なので第2図で☗7四銀なら確かに先手に勝ちがあったようです。
 こちらの手順が棋譜コメントに記されていないのは,後手玉が打ち歩詰めで逃れる手順と異なり,感想戦で触れられなかったからです。つまりこちらの手順は両対局者が共に気付いていなかったということ。この難解さの相違が,この将棋の明暗を分けたということではないでしょうか。それにしてもAIの助けを得ることによって人間の将棋のレベルがここまで高くなっていることに驚嘆します。
                                        
 3連勝で藤井聡太棋聖が防衛第91期からの連覇で2期目の棋聖。タイトル獲得3期で九段に昇段しました。

 人間だけが社会的に結合するわけではなく,すべての様態modus,ここでは物体corpusだけを考えてもよいですが,すべての物体が社会的に結合するとすれば,人間だけが社会societasを形成するということはできません。むしろすべての物体は,本性naturaを同じくする他の物体との間で社会を形成するというべきでしょう。いい換えれば,人間の本性natura humanaに基づく人間的結合だけを社会というべきではなく,同じ本性に基づく結合のすべてを社会というべきだということになります。これが僕が人間中心主義と本性中心主義が対立すると考えられる場合は,本性中心主義の方を選択するべきである,あるいはスピノザは本性中心主義の方を選択していると考えるひとつめの理由です。よって人間だけが社会を形成するとか,人間だけが社会的に結合するというような見解opinioは,話す能力potentiaを有する三角形が神Deusは優越的にeminenter三角であるというのと同じように,その主張をしているのが人間であるからだというように僕は解します。
 とはいえ,三角形が社会的に結合するというのは,何をいっているか分からないという方が多いのではないかと僕は推測します。しかしこれは,本性を同じくするものがそのことを根拠として何らかの結合を果たすことをモデルとして説明しているのですから,このモデルに適うような説明であれば何でもよいことになります。分かりやすくいえば,たとえばふたつの合同な正三角形が現実的に存在するというとき,このふたつの三角形はある仕方で結合すると,ふたつの対角が60度と120度のひし形を形作ります。これが三角形の結合であって,こうして結合したひし形が三角形の社会であるというように考えてしまえばいいのです。もちろん,現実的に存在する三角形が能動的に,いい換えればそれを十全な原因causa adaequataとしてそのような結合をすることはあり得ないということについては僕も肯定します。しかしこれはモデルであって,第四部定理三五を基礎として人間の社会が形成されるということが,現実的な観点からはモデルであるというのと同じことなのです。これが同じことだというのが分からないとすれば,それもまたそれが分からないというのが人間であるからにすぎないのです。
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阿波おどり杯争覇戦&優越性

2021-07-04 18:54:45 | 競輪
 小松島記念の決勝。並びは佐々木‐和田の東日本,町田‐池田の瀬戸内,太田‐小川‐小倉の徳島で中井と山田は単騎。
 佐々木がスタートを取って前受け。3番手に中井,4番手に山田,5番手に町田,7番手に太田で周回。残り3周のバックの出口から太田が上昇開始。町田は被せられるのを嫌ってかすぐに下げました。ホーム後のコーナーで太田が佐々木を叩いて前に出ると,早めに引いていた町田が発進。バックで太田を叩いて打鐘。3番手に太田,切り替えた山田が6番手,7番手に佐々木,最後尾に中井という隊列のやや長めの一列棒状。バックから太田が発進。町田の抵抗はありましたが乗り越え,捲り切って直線に。そのまま粘って優勝。太田と小川の中を割った小倉が1車輪差で2着。小川が半車輪差の3着で地元勢の上位独占。
 優勝した徳島の太田竜馬選手は3月に松山のFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は一昨年12月の佐世保記念以来で通算5勝目。小松島記念は一昨年に制覇していて2年ぶりの2勝目。このレースは現状では町田と太田の脚力が上位。太田は地元3人のラインになったので,あるいは早めに駆けていって後ろのふたりを引き出すという競走になるのかと思いましたが,自分が勝てるような競走になりました。町田も四国勢とは多くの連携がある筈で,意図的ではなかったとしても,中国と四国の5人で結束するようなレースになり,太田には余計に有利になりました。

 『エチカ』には優越性に関する記述はありません。スピノザがこのことについて詳しく語っているのは,フーゴー・ボクセルHugo Boxelに宛てた書簡五十六です。この中でスピノザは,もしも三角形が話す能力potentiaを持つとしたら,神Deusは優越的にeminenter三角であると言うだろうし,円は円で,神の本性naturaは優越的な意味において円形であると言うだろうと指摘しています。これはボクセルが,神が人間的な意味において意志したり認識したり考えたり見たり聞いたりするということを優越的に含んでいると思っているということを,ボクセルがスピノザに宛てた書簡五十五から看破したので,それを批判しようという意図をもっています。しかしここではこのことを,それとは別の角度から,それ自体の意味として考えていきます。
                                         
 スピノザはここでは三角形や円が話す能力を持つとしたらという仮定をしています。ですがこれは,三角形や円が神のことを表象するimaginariことができるとしたらという仮定に置き換えることができます。そしてもしも三角形が神を表象したら,神は優越的に三角であると認識するcognoscereようになるという意味です。同様に円は円で,もしも神を表象したとしたら,神は優越的に円である,あるいはスピノザのいい方に倣うなら,神の本性は優越的に円形であると認識するようになるという意味です。そしてこれが意味するのは,このことが三角形や円にだけ妥当するというわけではなく,すべてのものに妥当するということです。そしてすべてのものに妥当する以上は,これは人間にも妥当するのです。したがって,人間は神を表象したら,神のうちに人間的本性が優越的に含まれているというように錯覚するようになるのです。つまりスピノザは,ボクセルがある錯覚をしているということをいいたいのです。
 このことから帰結するのは,何らかのものの本性が神のうちに優越的に含まれているということは一切ないということです。したがって社会的結合と関連させていうなら,人間的な結合が神のうちに優越的に含まれているわけではありません。むしろ三角形は三角形的結合が,円は円的結合が神のうちに優越的に含まれると認識するというように考えるべきなのです、
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対応&優劣

2021-07-03 18:59:21 | 将棋トピック
 処分が発表されたときに僕が考えたことを詳しく説明していきます。まずはこの間の,日本将棋連盟,とくに執行部の対応に関してです。
 この発表からは,竜王戦の挑戦者決定戦が行われる以前に,三浦九段に対する疑惑が,執行部には伝えられていた筈だと思えました。これは後に判明したことですが,第三局では三浦九段の行動が秘密裏に監視されていたのですから,少なくとも第三局の前に執行部が疑惑を把握していたことは確実で,僕が推測したことは,完全ではなかったかもしれませんが,的外れではなかったことになります。
 僕がこれに関して思ったのは,それならなぜ挑戦者決定戦の前に,三浦九段に聴取をするなり行動に対する注意をするなりしなかったのかということでした。さらに,第三局が指されてから1ヶ月も経過した後に聴取をして,その聴取だけでいきなり処分を下すということも疑問に感じられました。僕はこのことを合理的に説明できるとすれば,竜王戦の第一局が迫っていたからだとしか考えられませんでしたので,竜王戦の処分に関する記事の中では,そのような主旨のことを記述したのです。
 この推測については誤りであったということが後に判明しています。執行部がこの時期に処分するに至ったのは,この疑惑についての報道が週刊誌に掲載されるということが明らかになり,そのことを心配した棋士が執行部にその事実を伝えたからでした。処分に関する記事の中で,僕は当時の渡辺竜王が聴取に参加したようだと記述していますが,この報道に対する対応のために中心になって行動した棋士が渡辺竜王であったのは間違いのない事実だということも,後に明らかになっています。渡辺竜王は竜王戦の当事者ですから,このような心配をしたのは当然のことであって,執行部に対して何らかの対応を求めたのは当然のことでしょう。
 時間的な余裕がなかったため,執行部は三浦九段に挑戦の辞退という無理な要求をし,その要求が受け入れられなかったために強引に処分したというのが,このときの真相ではなかったかと僕は今では考えています。週刊誌は竜王戦の開幕に合わせて記事にすることを狙っていた筈で,それが不幸な結果を招く要因になったともいえるでしょう。

 どのような事物にもその事物に固有の本性essentiaがあり,その本性は完全性perfectioを意味するということから帰結するのは,スピノザの哲学においては,完全であるか不完全であるか,いい換えれば存在するか存在しないか,あるいは存在し得るか存在し得ないかという点で差異をつけることが可能ですが,存在するものあるいは存在し得るものについては,より完全であるかより不完全であるかという差異をつけることは不可能だということです。なぜなら,仮にAとBという本性が異なるふたつの事物が存在する場合に,AはAの本性において完全で,またBもBの本性において完全ですから,どちらも完全であるということはできますが,Aの方がBより完全であるということはできませんし,Bの方がAより完全であるということもできません。Aの本性とBの本性が異なる分だけAの完全性とBの完全性は異なるのですが,Aの本性とBの本性との間で優劣をつけることができないので,Aの完全性とBの完全性の間に優劣をつけることもできないのです。
                                   
 これはAとBというふたつの事物の間での説明ですが,この説明は普遍的なものであって,事物がいくら存在したとしても成立します。したがってあらゆる事物の間で,すなわちすべての様態modusの間に,完全性の差異はないのです。このことが,様態の間で優越性があるということを認めないということに直結します。つまり,あるものが別のものに対して完全であるということができないのであれば,あるものが他のものに対して優越的であるということもできないということになるのです。よってほかのものに対して何らかの意味で優越的にeminenter存在する事物というのは存在しません。人間は馬よりも完全であるとはいえないがゆえに,人間は馬よりも優越的な存在ではあり得ません。同様に,人間の本性と三角形の本性の間に完全性の差異はないために,人間は三角形よりも優越的に存在するということはないのです。もちろんこのことは逆もまた真verumなのであり,馬が人間よりも優越的に存在するわけではありませんし,三角形が人間よりも優越的に存在するというわけではないのです。
 このことをスピノザのテクストで確認します。
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お~いお茶杯王位戦&対峙

2021-07-02 19:09:12 | 将棋
 6月29日と30日に名古屋能楽堂で指された第62期王位戦七番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太王位が1勝,豊島将之竜王が6勝。
 振駒で藤井王位の先手となり相掛かり。先手が縦歩を取る展開に進みました。
                                         
 先手が1筋の歩を取り込んだのに対して後手の豊島竜王も9筋の歩を取り込んだ局面。ここで☗8七歩と打って1日目が終了しました。☗9八歩と打った方がよかったようですが,先手が先に端を取り込んだのに受けなければならないのでは,すでに先手が苦しい局面であったように思います。先手は飛車の動きで手損をしていますので,そのあたりが問題だったということになるのではないでしょうか。
 封じ手は当然の☖7六飛。先手は先に取り込んだことを生かして☗1三歩成☖同香☗1四歩☖同香☗同飛と進めました。そこで受けずに☖9七歩成。
                                         
 これが強手で後手が優勢を決定づけました。ここからは後手が一方的に押し切っています。
 豊島竜王が先勝。第二局は13日と14日に指される予定です。

 僕は人間中心主義と本性中心主義が対峙する場面では,本性中心主義の方を選択します。その理由は,この場面では本性中心主義の方を選択することが,スピノザの哲学を誤らずに理解できると考えるからです。しかしこれでは同義反復にすぎません。ですから,人間中心主義と本性中心主義が相反する場面で,本性中心主義を選択する方が,スピノザの哲学を正しく理解することに役立つと僕が考えているのはなぜかということをここから説明していきます。最初にいっておけば,この根拠というのはふたつあります。
 最初の根拠は,スピノザが諸々の様態modusの間に,いい換えればすべての所産的自然Natura Naturataの間に,優越性に関する差異があるということを否定しているという点にあります。この観点は,原理的には次のような論理構造になっています。
 まず第二部定義二により,すべての事物,したがってすべての様態は,その様態の本性essentiaがなければあることも考えるconcipereこともできないものです。いい換えれば,どんな様態を抽出したとしても,その様態にはその様態に固有の本性というのがあります。それが固有の本性であると断定することができるのは,同じ定義Definitioによって,事物の本性というのはその事物がなければあることも考えることもできないものであるからです。
 次に,この定義の意味によって,一般に事物の本性は,その事物が存在することを鼎立するものであって,その事物の存在existentiaを排除するものではありません。したがって様態Aがあるとすれば,様態Aの本性は様態Aが存在するということを鼎立しますが,排除することはありません。ところで,存在することはそれ自体が力potentiaであり,存在し得ないということは力と真逆の意味において無能力impotentiaです。これはスピノザが第一部定理一一の第三の証明で指摘していることでもあります。よって事物の本性が,その事物が存在するということを鼎立するものである以上,事物の本性は,力という観点からみた場合にはその事物の実在性realitasにほかなりません。そして第二部定義六により,事物の実在性は事物の完全性perfectioと同じです。つまり事物の本性は,力という観点からみる限り,その事物の完全性を意味することになります。
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