
[いきさつ] 東京国立博物館で開催されている顔真卿展を見に行く前に、
今まで敬遠してきた顔真卿を臨書する。んだってば。
楷書をあれこれやって、これまた敬遠してきた行書に取り掛かった。
「祭姪文稿」をやったけど、何がなんだか。
ところが、「争坐位文稿」は、ちょっと楽しい。
何が違うのか。
・なんだかんだ言って行書に慣れてきたんじゃないの?
・悲しみよりも怒りのほうが、自分としては共調しやすいってことがあるから?
・マイ書アイドルである北宋の米芾(べいふつ)が「争坐位文稿」を褒め称えているのを知っているから?
・体調良かったとか?集中しやすかったとか?
まあ、なんだかんだ言って行書に少しは慣れてきたんじゃないか、
という気はする。
ほんでもって実は展覧会も行ってきたのだが、
顔真卿に対する感想は結局のところあまり変わらなかった。
楷書はなんだってあんなことになっちゃっているのか理解に苦しみ、
行書は習ってみたいと思う。
これは、マイ書アイドルである米芾の酷評と賛辞に等しいけれど、
何もマイ書アイドルが言っているからそう思うのではなく、
以前から思っていたことなのだ。
今回、楷書作品をいくつか臨書して、「立派な字だ」と思えるようになった
とも書いた。
けれど、それは独自の書法が横溢する手前の作品について、だ。
齢を取ってからの、いわゆる顔法による、たとえば「顔氏家廟碑」なんか見ると、
えーどうしてこうなっちゃうの?と思う。
だって変じゃん。
バランス悪いし、一字一字の形もおかしいし、一画の中の線もかっこ悪いよ。
とまあ、
初心者のズブの素人の下手くその一人がぽそりと言っているだけです。
「書は人なり」と言ってしまうと、
書の批判をするということは、その人自身の人柄を批判することと同等、
ということになってしまうので、
私は「書は人なり」とは言えない。
顔真卿が情に厚く忠義の人だったということは、ゆるぎない。
展覧会に合わせて大慌てで臨書してきたけれど、
今後はもっとじっくりと「争坐位文稿」などを臨書してみたい。
展覧会の感想は、またあらためて。
今まで敬遠してきた顔真卿を臨書する。んだってば。
楷書をあれこれやって、これまた敬遠してきた行書に取り掛かった。
「祭姪文稿」をやったけど、何がなんだか。
ところが、「争坐位文稿」は、ちょっと楽しい。
何が違うのか。
・なんだかんだ言って行書に慣れてきたんじゃないの?
・悲しみよりも怒りのほうが、自分としては共調しやすいってことがあるから?
・マイ書アイドルである北宋の米芾(べいふつ)が「争坐位文稿」を褒め称えているのを知っているから?
・体調良かったとか?集中しやすかったとか?
まあ、なんだかんだ言って行書に少しは慣れてきたんじゃないか、
という気はする。
ほんでもって実は展覧会も行ってきたのだが、
顔真卿に対する感想は結局のところあまり変わらなかった。
楷書はなんだってあんなことになっちゃっているのか理解に苦しみ、
行書は習ってみたいと思う。
これは、マイ書アイドルである米芾の酷評と賛辞に等しいけれど、
何もマイ書アイドルが言っているからそう思うのではなく、
以前から思っていたことなのだ。
今回、楷書作品をいくつか臨書して、「立派な字だ」と思えるようになった
とも書いた。
けれど、それは独自の書法が横溢する手前の作品について、だ。
齢を取ってからの、いわゆる顔法による、たとえば「顔氏家廟碑」なんか見ると、
えーどうしてこうなっちゃうの?と思う。
だって変じゃん。
バランス悪いし、一字一字の形もおかしいし、一画の中の線もかっこ悪いよ。
とまあ、
初心者のズブの素人の下手くその一人がぽそりと言っているだけです。
「書は人なり」と言ってしまうと、
書の批判をするということは、その人自身の人柄を批判することと同等、
ということになってしまうので、
私は「書は人なり」とは言えない。
顔真卿が情に厚く忠義の人だったということは、ゆるぎない。
展覧会に合わせて大慌てで臨書してきたけれど、
今後はもっとじっくりと「争坐位文稿」などを臨書してみたい。
展覧会の感想は、またあらためて。
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