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[あらすじ] 書の独習を始めてひと月あまり。
行書草書はてっきり楷書をくずしたものだと思っていたら、
隷書を速く書くために発達したものなのだということを知った。
なんてこった。
楷書が成立したのは、後漢の時代頃のようだ。
西暦で言えば200年の頃だ。
その後、西暦400年頃になって、楷書が国の正式の文字として定められる。
じゃあそれまでは何が国家の正字だったかと言うと、隷書なのだ。
ところがこの隷書というのも、そもそもは俗字だった。
人々が書きやすさを求めて使っていた書体なのだ。
じゃあその頃は何が国家の正字だったかと言うと、篆書なのだ。
篆書も古い時代の複雑めな文字である大篆と
よりすっきりとした小篆とある。
この、新しい小篆を、国家の文字として統一をはかったのが、
かの、秦の始皇帝、というわけだ。
度量衡や通貨の統一によって流通を促進しただけでなく、
文字も統一することによって、国全体をまとめあげようとしたのだ。
納得。
さてそれ以前は、前出した大篆があり、
その前には青銅器に刻まれた文字として金文があり、
占いの記録を動物の骨に刻んだ甲骨文があり、
土器に文字を刻んだ陶文がある。
陶文までくると、文字と呼べるかどうか、あやしい。
書を学ぶのに、五体字類という字書が必携だ、と以前書いた。
五体字類には、それぞれの文字が楷・行・草・隷・篆の順で並んでいる。
それは、漢字の発達の逆の順序だったのだ。
考えてみればあたりまえだけど、
私たちは漢字の中で、一番新しいタイプのものを使っているわけだ。
その楷書も、さらに日本で独自に新しく簡略化したものを使っている。
(學→学など)
中国では簡体字と言って、さらに簡略化している。
(陰陽→阴阳 、運動→运动などなど)
ここ最近百年の中で、大きく変化しているわけだが、
その元となる楷書は1800年前に完成している。
ずいぶん長く使ってきたもんだ。
また、およそ400年という短い間に、篆書から行草隷楷を生み出した、
秦から漢の時代の文化の高さにも思いが飛ぶ。
行書草書はてっきり楷書をくずしたものだと思っていたら、
隷書を速く書くために発達したものなのだということを知った。
なんてこった。
楷書が成立したのは、後漢の時代頃のようだ。
西暦で言えば200年の頃だ。
その後、西暦400年頃になって、楷書が国の正式の文字として定められる。
じゃあそれまでは何が国家の正字だったかと言うと、隷書なのだ。
ところがこの隷書というのも、そもそもは俗字だった。
人々が書きやすさを求めて使っていた書体なのだ。
じゃあその頃は何が国家の正字だったかと言うと、篆書なのだ。
篆書も古い時代の複雑めな文字である大篆と
よりすっきりとした小篆とある。
この、新しい小篆を、国家の文字として統一をはかったのが、
かの、秦の始皇帝、というわけだ。
度量衡や通貨の統一によって流通を促進しただけでなく、
文字も統一することによって、国全体をまとめあげようとしたのだ。
納得。
さてそれ以前は、前出した大篆があり、
その前には青銅器に刻まれた文字として金文があり、
占いの記録を動物の骨に刻んだ甲骨文があり、
土器に文字を刻んだ陶文がある。
陶文までくると、文字と呼べるかどうか、あやしい。
書を学ぶのに、五体字類という字書が必携だ、と以前書いた。
五体字類には、それぞれの文字が楷・行・草・隷・篆の順で並んでいる。
それは、漢字の発達の逆の順序だったのだ。
考えてみればあたりまえだけど、
私たちは漢字の中で、一番新しいタイプのものを使っているわけだ。
その楷書も、さらに日本で独自に新しく簡略化したものを使っている。
(學→学など)
中国では簡体字と言って、さらに簡略化している。
(陰陽→阴阳 、運動→运动などなど)
ここ最近百年の中で、大きく変化しているわけだが、
その元となる楷書は1800年前に完成している。
ずいぶん長く使ってきたもんだ。
また、およそ400年という短い間に、篆書から行草隷楷を生み出した、
秦から漢の時代の文化の高さにも思いが飛ぶ。
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