墨を磨る時には、無心で磨るのがよろしいと思う。
思いつつ、何かを読む。
イケナイ現代人だと思う。
「ながら」で「時短」とか考えるのは
時間に貧しい心だと思う。
思うけど、読む。
※
ずーっと敬遠していた毛筆での書を、6年前に始めた。
誰に習うわけでもなく、ただ手本を見て書く。
すぐに、臨書ということをおぼえた。
中国の、二千年前の石碑の拓本だとか、
スゴい書家の書いたものを写したとされる版本などを
ひたすらに真似て書く。
楷書から始めて、行書ちょっとやって、
そうするうちに、草書は崩して書いたものじゃないと知って、
更に隷書を知り、ことのついでだとばかりに
篆書へと遡った。
甲骨文字は毛筆で書く意味が分からないので、やっていない。
そのうち、庭に埋めた愛犬の骨を掘り出して、太占でもやったら
刻んでみるかもしれない。
石碑の隷書がウソくさく見えてきた頃に、
簡牘が発掘されていることを知って、肉筆の隷書を臨書した。
今んとこ、簡牘の隷書が一番、書いていて楽しい気がする。
楷書は肩が凝る。
草書を書きこなすほどの勢いはまだ無い。
※
臨書していて、書いた字の形が手本そっくりに書けるようになったりする。
筆をうまく使うと、そっくりに書けるのだ。
そんなことをしていると、手本を見た時に、どのように筆を使ったのか、
分かるようになってくる。
でも、字に宿る気と言うか、書の勢いのようなものは
形だけを似せてもついてこない。
形を似せることに気を払い過ぎると、
自分の、字を書こうという気持ちがそげてしまう感じだ。
草書を臨書することで、
字に乗る勢いや、そこにある呼吸を身に付けたいと考えている。
※
暑いと集中力が出ないから。とか
寒いと身体がうまく動かないから。とか
湿気が高いと墨がにじむから。とか
何かとサボる理由はいっくらでも見つかる。
どんどんサボる。
書初めの練習をしたっきり、ほったらかしである。
※
書初めには、篆書を書こうと練習していた。
まあ、今年のうちには書き上げよう。そのうちね。
篆書というものも、毛筆で書く意味がよく分からない。
デザイン的に優れており、ハンコに刻むにはとてもステキだと思う。
そう思いながら稽古するから、どうもはかどらない。
そういう思いを取っ払うことができたら、
いきいきとした篆書が書けるだろう、と思いながら、
突破口が見付からずにいた。
※
古本屋で買った、
季刊「墨」スペシャル19
中林梧竹の特集号が手元に有るが、まーるで読んでいなかった。
ぴらぴらめくって読みながら、墨を磨る。
私はどうも疲れやすく、集中力がもたない。
それでも、書を始めた頃は楽しくて、一時間以上は書き続けていた。
今はそんなにもたない。
墨もそんなに要らない。
そんなちょびっとの墨を磨るだけの間なので、
何かを読むと言っても、ちょっとしか読まない。
学びの有る本を読むのも、やっぱりちょっとしか読めない。
あんまり濃い内容をたくさん読んでも、頭に入らない。
食べ過ぎたら下痢しちゃうのとおんなじような感じだ。
だから、少しの墨を磨りながら、少しだけ読んだ。
そうして、梧竹の篆書に「ぎゃー」となった。
書初めの練習の際に、いろいろな書家の篆書を見てみたけれど、
どうもピンと来なかった。
どうしたら線に息吹が入るのか、分からなかった。
しかし、ぴらっと本をめくって見た梧竹の篆書は生きていた。
※
その次のページに、梧竹の言葉があった。
「指、筆ヲ転ズル者ハ下也。
腕、筆ヲ転ズル者ハ上也。
未ダ心、筆ヲ転ズル者ニ如カズ。
指、筆ヲ転ズル者ハ指端ノ芸に過ギザル也。
腕、筆ヲ転ズル者ハ進メリ。
然レドモ猶ホ腕頭ノ芸ノミ。
心、筆ヲ転ジ、而シテ後ニ始メテ心芸ト称ス可シ。」
「指先で筆を操ってるようじゃダメよ。
腕から書くのが良いけど、そんでも心で書くほどじゃねえよ。
小手先の芸を超えるには、心で書いてやっとそう言えるってことよ。」
自分の課題として意識していることを通して読むと、そんな意味になると思う。
思いつつ、何かを読む。
イケナイ現代人だと思う。
「ながら」で「時短」とか考えるのは
時間に貧しい心だと思う。
思うけど、読む。
※
ずーっと敬遠していた毛筆での書を、6年前に始めた。
誰に習うわけでもなく、ただ手本を見て書く。
すぐに、臨書ということをおぼえた。
中国の、二千年前の石碑の拓本だとか、
スゴい書家の書いたものを写したとされる版本などを
ひたすらに真似て書く。
楷書から始めて、行書ちょっとやって、
そうするうちに、草書は崩して書いたものじゃないと知って、
更に隷書を知り、ことのついでだとばかりに
篆書へと遡った。
甲骨文字は毛筆で書く意味が分からないので、やっていない。
そのうち、庭に埋めた愛犬の骨を掘り出して、太占でもやったら
刻んでみるかもしれない。
石碑の隷書がウソくさく見えてきた頃に、
簡牘が発掘されていることを知って、肉筆の隷書を臨書した。
今んとこ、簡牘の隷書が一番、書いていて楽しい気がする。
楷書は肩が凝る。
草書を書きこなすほどの勢いはまだ無い。
※
臨書していて、書いた字の形が手本そっくりに書けるようになったりする。
筆をうまく使うと、そっくりに書けるのだ。
そんなことをしていると、手本を見た時に、どのように筆を使ったのか、
分かるようになってくる。
でも、字に宿る気と言うか、書の勢いのようなものは
形だけを似せてもついてこない。
形を似せることに気を払い過ぎると、
自分の、字を書こうという気持ちがそげてしまう感じだ。
草書を臨書することで、
字に乗る勢いや、そこにある呼吸を身に付けたいと考えている。
※
暑いと集中力が出ないから。とか
寒いと身体がうまく動かないから。とか
湿気が高いと墨がにじむから。とか
何かとサボる理由はいっくらでも見つかる。
どんどんサボる。
書初めの練習をしたっきり、ほったらかしである。
※
書初めには、篆書を書こうと練習していた。
まあ、今年のうちには書き上げよう。そのうちね。
篆書というものも、毛筆で書く意味がよく分からない。
デザイン的に優れており、ハンコに刻むにはとてもステキだと思う。
そう思いながら稽古するから、どうもはかどらない。
そういう思いを取っ払うことができたら、
いきいきとした篆書が書けるだろう、と思いながら、
突破口が見付からずにいた。
※
古本屋で買った、
季刊「墨」スペシャル19
中林梧竹の特集号が手元に有るが、まーるで読んでいなかった。
ぴらぴらめくって読みながら、墨を磨る。
私はどうも疲れやすく、集中力がもたない。
それでも、書を始めた頃は楽しくて、一時間以上は書き続けていた。
今はそんなにもたない。
墨もそんなに要らない。
そんなちょびっとの墨を磨るだけの間なので、
何かを読むと言っても、ちょっとしか読まない。
学びの有る本を読むのも、やっぱりちょっとしか読めない。
あんまり濃い内容をたくさん読んでも、頭に入らない。
食べ過ぎたら下痢しちゃうのとおんなじような感じだ。
だから、少しの墨を磨りながら、少しだけ読んだ。
そうして、梧竹の篆書に「ぎゃー」となった。
書初めの練習の際に、いろいろな書家の篆書を見てみたけれど、
どうもピンと来なかった。
どうしたら線に息吹が入るのか、分からなかった。
しかし、ぴらっと本をめくって見た梧竹の篆書は生きていた。
※
その次のページに、梧竹の言葉があった。
「指、筆ヲ転ズル者ハ下也。
腕、筆ヲ転ズル者ハ上也。
未ダ心、筆ヲ転ズル者ニ如カズ。
指、筆ヲ転ズル者ハ指端ノ芸に過ギザル也。
腕、筆ヲ転ズル者ハ進メリ。
然レドモ猶ホ腕頭ノ芸ノミ。
心、筆ヲ転ジ、而シテ後ニ始メテ心芸ト称ス可シ。」
「指先で筆を操ってるようじゃダメよ。
腕から書くのが良いけど、そんでも心で書くほどじゃねえよ。
小手先の芸を超えるには、心で書いてやっとそう言えるってことよ。」
自分の課題として意識していることを通して読むと、そんな意味になると思う。
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