旅日記

旅の記録と紀行文を紹介する事でしょう。
写真は私が撮影したものを使用しています。

名勝 養浩館庭園

2023-09-23 19:00:00 | みる

乗車券 [区]東京都区内 ➡ 金沢(7,970円)

令和5年9月18日月曜日。flag1 敬老の日。福井駅に来ている。北陸新幹線ではなく北陸本線経由金沢までの乗車券で途中下車する。


改札口と自動券売機

もちろん出札口(みどりの窓口)もある。


北陸新幹線 福井・敦賀開業まで 180日 ※令和5年9月18日現在
北陸新幹線 2024年316開業


新幹線の出札口(みどりの窓口)と自動券売機

開業前の新幹線駅を見てみる。左のシャッターが下りているところが改札口か。


通路反対側は自動券売機と改札か


えちぜん鉄道 勝山永平寺線 福井駅 (福井県福井市中央)

駅の外に出てきた。東口側には新幹線に沿ってえちぜん鉄道の駅がある。高架化工事の際、一時的に開業前の新幹線の高架にえちぜん鉄道の列車が走り、駅も設置されていたそうで面白い。京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)京都本線も高架化工事の際に開業前の新幹線の高架を走っていたのだそう。えちぜん鉄道には福井より勝山に至る勝山永平寺線と、途中の福井口より分岐し三国港へ至る三国芦原線の二路線がある。現在は第三セクターのえちぜん鉄道が運営しているが、平成15年に事業譲渡するまで京福電気鉄道の越前本線(現勝山永平寺線)と三国芦原線だった。






新幹線駅をのぞいてみる

博多に直通していないのに「博多新鳥栖方面」という表示を見た事があるが、ここはさすがに「大阪京都方面」という案内はしていない。博多方面の列車は新幹線と在来線の乗り継ぎは同一プラットフォームで速やかに出来るが、敦賀での北陸新幹線と北陸本線との乗り継ぎはプラットフォームの階層も異なり、8分程度の時間を要するようである。


新幹線は1面2線の構造






木調で和のイメージ




JR西日本 北陸本線 福井駅《東口》 (福井県福井市中央)

一乗谷の唐門をモチーフにしているそう。


JR西日本 北陸本線 福井駅《西口》 (福井県福井市中央)

東口より西口にやって来た。こちらが正面であり高架となる前は駅ビルがあった。福井上野行急行〔能登〕があったので利用した事がある。福井上野までの急行券を買い、駅ビルで8番らーめんを食べた。紅葉の関西旅行で往路は快速〔ムーンライトながら〕、復路は急行〔能登〕を使い、乗車券は東京都区内→東京都区内を購入。快速〔ムーンライトながら〕は混雑していたが、急行〔能登〕は空いていて快適だった。JR西日本の車掌さんが終着上野まで乗務していて、高崎線内からの乗客に急行券を売っていた。後に運転区間は上野金沢間に短縮され、新幹線金沢開業を待たず廃止された。


駅前広場には恐竜が!






サウタン Sautan


ラプト Rapto


ティッチー Titchy




恐竜たちに別れを告げ福井城へ…








福井藩は福井県になっていた!

明治4年の廃藩置県である。福井藩→福井県→足羽県→敦賀県と変遷するが、明治9年に嶺南(若狭国及び越前国敦賀郡)は滋賀県、嶺北(敦賀郡を除いた越前国)は石川県に編入される。明治14年に嶺南・嶺北は分離され改めて福井県が誕生している。若狭国と越前国が県域となるが、昭和になって一部が岐阜県へ編入されている。富山県が石川県に編入されていた事は知っていたが、福井県も復活した県だったのか。


福井県警察本部 (福井県福井市大手)


福井県庁 (福井県福井市大手)


結城秀康公

慶長五年(一六〇〇年)関ケ原の戦いの後、越前六十八万石の大名となった結城秀康公(徳川家康の次男)は、翌六年に北庄(後の福井)に入り、新しい城の建設と、柴田勝家にはじまる城下町の大改造に着手した。多くの民の力と汗に支えられ、およそ六年の歳月をかけて完成した城下は、都市としての福井の原形をかたちづくり、今日の福井市発展の礎となった。(碑文より)


大本營 行在所 記念碑 福井縣廳

昭和8年に陸軍特別大演習が行われた折、県庁が行在所となったそう。


福井県議会議事堂 (福井県福井市大手)







堀に守られた堅牢な県庁だった。




ホテルフクイキャッスル (福井県福井市大手)

内堀に面したこのホテルに泊まった事がある。その時に福井城本丸が県庁になっているのを知った。


福井放送局 (福井県福井市宝永)

福井放送局の前を通り養浩館庭園へ。福井市立郷土歴史博物館との共通券(350円)を買い入園する。庭園のみの入園料は220円。早朝は無料開園されている(建物への立ち入り不可)。


名勝 養浩館庭園 (福井県福井市宝永)

江戸期に作庭された藩主別邸の庭園。明治17年に松平春嶽公によって「養浩館」と名付けられる。数寄屋造りの屋敷をそなえる回遊式林泉庭園だそう。












笏谷石製の流れ蹲踞







先程から賑やかな外国語が聞こえてくる。団体さんが訪れているようだ。


靴を脱いで屋内へ


御湯殿


池の鯉


大群過ぎんか!?

鯉のエサが1パック100円で販売されており集まっていたのだ。外国からの団体さんはSouth Koreaからで、ツアーの行程でここを去る時間らしく、エサやりで残った分を居合わせた日本人観光客に譲っている。日本人も外国語で謝意を伝え、小さな国際交流にほっこりする。




座敷より池を眺める

お殿様も見たであろうこの景色。













江戸期より伝わる庭園は昭和初期まで越前松平家の休養や迎賓等の場として使われていたそう。しかし昭和20年7月19日深夜、米軍による空襲で市街地は焼かれ、養浩館庭園の建物も焼失してしまう。現在の建物は古写真などをもとに復原されたものである。








庭園を後にする




福井城 舎人門 (福井県福井市宝永)



外堀に面した門が復原されている。


いずれも令和5年9月18日撮影

内堀の中の本丸跡が県庁だが、外堀の中の福井城全体は非常に大きい。古地図を見れば堀は何重もある。それでは福井市立郷土歴史博物館へ向かう。 (つづく)