今朝目が覚めると、テレビはいずこも長野市の北京オリンピック聖火リレーを報じていた。私の大事なブログに、この茶番劇についてだけは書くまいと思っていたが、ブログが日記の性格を持ち、自分のカテゴリーに「時局雑感」を入れていることもあって、後日のために一言だけ触れておく。
テレビを見ると、一般国民の立ち入りを極力押さえ、警察官を含む何百人もの護衛に囲まれて聖火が運ばれていた。オリンピックは平和の祭典と呼ばれ、聖火はその平和を最も象徴するものとされている。
しかしこの聖火は私には非平和の象徴に見えた。
平和ならば聖火は、それを見守る観衆の中を誇りと自信に満ちて高く掲げられ、せいぜい伴走者(車)の一人か一台を従えて堂々と運ばれるはずだ。しかしそこに平和はない。むしろ一触即発の危険が充満している。
このような事態が世界各地で起こっている場合、一番為すべきはその原因を究明し解決に全力を挙げることであろう。にもかかわらず中国政府は(また各国首脳も)、自己の主張を強調するだけでこの茶番劇を推し進めている。
なぜ、こうまでして聖火を世界各国に走らせなければならないのか?
それは、国威高揚や経済主義など、オリンピックの政治的利用としか考えられない。近時、オリンピックはスポーツの祭典といいながら経済効果の追求に走り膨張を続けてきた。同時にそれは国威をあおる道具にされてきた。改革開放から新たな世界戦略を進める中国にとって、格好の材料かもしれない。第二次世界大戦の前夜、「民族の祭典」と謳われてヒットラー・ナチスに主導されたドイツオリンピックが想起される。一方には飢えと貧困に苦しむ多くの人々を抱えながら,茶番劇に膨大な資金をつぎ込む・・・人間はいつまで誤りを繰り返すのだろうか?
人類には、新たなルネッサンス(原点に帰るという意味で)が求められているのであろう。