昨日のブログで岩中祥史氏の『名古屋学』を紹介したが、岩中氏は名古屋の食べ物について次のようなことを書いている。
「『きしめん』、『味噌煮込みうどん』、『味噌カツ』、
『ういろう』、『守口漬』などの名がいちおうあがるが、
今ひとつ魅力に欠ける」
「そこに見られるのは実利主義の影ばかりなのである。
合理的な料理、経済的な料理・・・。より具体的にいえば、
ちょっとの量で腹がいっぱいに感じられるもの。とにか
く日もちのするもの。見栄えのわりに値段の安いも
の・・・といった食べ物のオンパレードなのだ。」
そして昨日触れた「きしめん」についても、定説かどうかは別という前提で、「平らな形にしておくと、煮るにしても時間がかからない。その分、燃料が節約できるというのである。それともうひとつ、平らにしておいたほうが、ダシと接する表面積が大きくなるから味がよくしみこむというのである。いずれの場合も、効率が追求されている」と、名古屋人の実利主義を強調している。
私は、とにかく美味しければ、効率性、実利性が追求されるのは結構なことではないかと思うのだが、岩中先生にはどうも「美味しくない」ようで、その原因が実利主義にあり、「食文化がない」とまで書いている。
それはさておき、その効率性の最たるものが「櫃(ひつ)まびし」であると思った。二日目の昼食は待望のひつまぶしを食わんものと、ガイドブックから選び抜いた『うな善』に赴いた。ひつまぶしは言うならば「うなぎ飯」であるので、「うな」と名乗りそれが「善」なら申し分なかろうというのが選択の理由。それに名古屋駅に近いことも。
ご承知のとおりひつまぶしは、お櫃に入ったご飯の上にうなぎが乗せられており、それをしゃもじで四等分に切り分け、最初の四分の一はそのまま食べ、次の四分の一はやくみ(こねぎ、のり、わさびなど)をかけて食べ、3番目はお茶漬けにし、最後の四分の一は、前3回のうち一番美味しかった食べ方で食べる、というもの。
なんとも合理的ではないか! 一つのものを三つに味わう。しかも、そのうち一番美味しい食べ方をもう一度味わえるというところがいい!
岩中先生は「名古屋の食には文化がない」と言うが、名古屋人はかなり執念深く味を追及しているのではないか? 最後の一番美味しい方法で「ダメを押す」などは、文化的追求としてはかなりの水準と言えるのではないか?
効率的かつ文化的な食べ物として「ひつまぶし」を推薦する。しかも『うな善』は関東風味付けであるので、東京人によいだろう。(断っておくが『うな善』とは何の関係も無いので念のため)