15日のテレビ朝日「サンデープロジェクト」で自民党の中川政調会長は、
「(日本の)憲法でも核保有は禁止されていない。核があることによって(他国に)攻められる可能性が低くなる。あるいは、やれば、やりかえす、という論理は当然あり得る。議論は当然あっていい」と述べた。
この人の発言は解りやすいが物議をかもしやすい。
その点では石原都知事と共通点がある。
物議をかもす事は「想定内」の確信犯であることも・・・。
冷戦時代の米ソ核超大国は「核の抑止力」で重大な直接衝突を避けてきた。
「相手が核攻撃すれば核の報復を受ける」、だから核攻撃は出来ないという理屈だ。
これを他の人が「核の抑止力についても議論すべきだ」とテレビで発言しても陳腐すぎて誰も物議してくれない。
これが中川発言となると、
「やれば、やりかえす、という論理は当然あり得る。議論は当然あっていい」と解りやすいだけ注目を浴びる。
更に続けて「どう見ても頭の回路が我々には理解できないような国が(核兵器を)持ったと発表した。これは何としても撲滅しないといけない」と話はエスカレートする。
これに対し、公明党の斉藤政調会長は同番組で「我々は絶対に核を持たない。議論することも世界が疑念を抱くから駄目だ」と反論した。
その後、中川発言には「糖尿病になれば核攻撃を始める」というオマケまで付けるサービス振りだ。
メディアが放って置く筈がない。
◆沖縄タイムス 大弦小弦 (2006年10月23日 朝刊 1面)
民主主義の社会では議論の大切さを疑う余地はない。特定の立場の人によって、また一方的な考え方で物事を決めたことが過ちや悲劇を招いた事実は歴史上数え切れない。
だから議論の重要性はよく分かる。だが待てよ。ただ議論すればいいのか、テーマはなんでもいいのだろうか。議論することで、その行方によってはそれまで国民の総意として守ってきたことが変更することもあり得る。
この一週間、自民党の中川昭一政調会長の「核保有論の議論の必要性」発言が国内外に波紋を広げている。後押しするかのように麻生太郎外相も「政党の議論は妨げない」と表明し、より物議をかもしている。
世界で唯一、しかも二度の原爆の被害を受けた日本では、核の保有どころか存在自体否定するのは自明のことではなかったか。しかも核廃絶が世界の流れの中で、保有について是非を問う必要性があるのか。
中川発言は最近の北朝鮮の核実験をけん制したものとの見方もある。ここで思うのは、ある意図を持った政治家が「議論」という言葉を持ち出すことによって、なんでも正当化されやすい危うさである。
今回の話は一国の政治の場での議論である。単なる市民レベルの議論ではない。そのことで核保有について「誤ったメッセージ」を他国に送ることへの懸念する声がある。被爆国日本が、核廃絶に費やした半世紀以上の努力が無になる可能性さえある。(比嘉弘)
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沖縄タイムスは相変わらずの「核アレルギー」で思考停止状態。
常日頃「言論の自由」とか「民意の尊重」とか御託を並べる一方「議論することで、その行方によってはそれまで国民の総意として守ってきたことが変更することもあり得る。」とは論理破綻もはなはだしい。
そもそも民主主義とは議論して物事を決める制度ではなかったのか。
国会議事堂や議会と言う言葉には議論を尊ぶ民主主義の精神が表れている。
それを議論もまかりならぬとは独裁的全体主義に他ならない。
≪国の政治の場での議論である。単なる市民レベルの議論ではない。そのことで核保有について「誤ったメッセージ」を他国に送ることへの懸念する声がある≫
単なる市民は議論しても良いが、政治家は議論していけない事って何だろう。
国防問題、国の安全保障問題こそ一市民や地方議会はともかく、国レベルの政治家が真剣に議論すべきではないか。
もう神学論争は止めましょう、・・・いや、その論争さえ封じるのですか。
「中川発言」は確信犯の外交カードだったのですよ。
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◆中川発言に騒ぐメディア。 これも想定内、中川の思う壺か。
日テレニュース
公明党・太田代表「核保有は議論に至らぬ」<10/16 14:02>
自民党・中川政調会長が15日に日本の核兵器保有について「議論はあってもいい」と述べたことについて、公明党・太田代表は16日、「議論するに至らない」と批判した。
中川政調会長は16日も「核を持たずに安全をどう守っていくか議論したらいい」と、核保有をめぐる議論の必要性をあらためて強調した。
16日昼に行われた政府・与党連絡会議ではこの核兵器保有をめぐる発言は出なかったが、太田代表は記者団に対し、「議論そのものが必要ない」と批判した。
これに先立って塩崎官房長官は16日朝、「一切の核兵器を保有し得ないという原則は変わらない」と述べ、政府として非核三原則を今後も堅持していく方針を強調した。
明日も (続く)